山路愛山(読み)ヤマジアイザン

デジタル大辞泉 「山路愛山」の意味・読み・例文・類語

やまじ‐あいざん〔やまぢ‐〕【山路愛山】

[1865~1917]評論家。江戸の生まれ。本名、弥吉。「国民新聞」の記者、「信濃毎日新聞」の主筆を経て雑誌「独立評論」を創刊。独自の国家社会主義を主張した。著「足利尊氏」「社会主義管見」「現代金権史」など。

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精選版 日本国語大辞典 「山路愛山」の意味・読み・例文・類語

やまじ‐あいざん【山路愛山】

評論家、ジャーナリスト。江戸の生まれ。名は彌吉。徳富蘇峰と交わり民友社入社、「国民之友」「国民新聞」に史論・文学論を発表。のち「信濃毎日新聞」「信濃日日新聞」の主筆となる。雑誌「独立評論」「国民雑誌」など創刊。著「荻生徂徠」「新井白石」「足利尊氏」「社会主義管見」「現代金権史」「支那論」など。元治元~大正六年(一八六四‐一九一七

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改訂新版 世界大百科事典 「山路愛山」の意味・わかりやすい解説

山路愛山 (やまじあいざん)
生没年:1864-1917(元治1-大正6)

評論家。本名は弥吉,愛山は号。幕臣の子として江戸に生まれ,明治維新後静岡に移り,生の転換を求めて1886年キリスト教入信し,東洋英和学校に学ぶ。91年メソディスト三教派の機関紙《護教》を創刊し,その主筆(1891-97)になる。92年民友社に入り,《国民之友》《国民新聞》に執筆し,99年《信濃毎日新聞》の主筆をし,1903-16年に月刊《独立評論》を刊行。そのころ海老名弾正の自由主義に一時共鳴。1905年斯波貞吉,中村太八郎らと国家社会党(-1910)を結成し,家族国家論を基礎とした社会改良を唱え,06年普選運動や東京市電車賃値上げ反対運動を推進した。《現代日本教会史論》(1906),未完の《日本人民史》(1913)ほか,史論が多い。
執筆者: 貧しい生活の中で《西国立志編》に感銘を受け,早くから独学自活の道を歩んだ愛山の文筆家としての活動は,徳富蘇峰の勧めで入った民友社時代から本格化した。入社の翌年(1893)には,北村透谷との間の有名な〈人生相渉(そうしよう)論争〉が開始されている。これは,愛山が《頼襄を論ず》(《国民之友》)で,〈文章即ち事業なり。……人生に相渉らずんば是も亦空の空なるのみ〉と述べて,美辞に流れ世に益することのない文学を批判したのに対し,透谷が《人生に相渉るとは何の謂(いい)ぞ》(《文学界》)をもって応じたもの。この論争の過程で,文学の社会性や思想性を強調する愛山と,それらに還元できない独自な価値を文学に見いだそうとする透谷の立場が明らかになった。続く《信濃毎日》時代には,愛山は,社会の官僚制化の進行とロシアの進出に対する批判・警戒を主調とする論陣を張り,主筆を辞して後は,極東情勢の緊迫化の中で〈帝国主義〉を唱えてロシアとの対決を説く一方,国内の財閥の台頭に抗すべく〈国家社会主義〉を提唱した。晩年は引き続き多数の時事論文を記すかたわら,日本民族の政治的能力を確認するため日本人種論の研究に進んだ。このような愛山の活動を支えていたのは,旧幕の子弟としての反骨の姿勢と,《西国立志編》に由来する独立自助の精神,さらに逆境を克服して人間的向上を図る〈英雄〉の観念であった。愛山は活力と流動性に富んだ明治初期の社会状況を理想とし,みずからの立場を〈平民主義〉と称したが,そこには,硬直化しつつある明治後期の社会の再活性化と,その現実担い手たるべき地方の青年たちの奮起を期待する念がこめられていたのである。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「山路愛山」の解説

山路愛山

没年:大正6.3.15(1917)
生年:元治1.12.26(1865.1.23)
明治から大正にかけてのジャーナリスト,歴史家。本名は弥吉,愛山は号。幕府天文方見習山路一郎,けい子の長男として江戸に生まれる。維新後静岡に移転する。明治19(1886)年キリスト教に入信し,さらに22年上京して東洋英和学校に学ぶ。24年に創刊されたメソジスト派の機関紙『護教』の主筆として活躍すると同時に,25年徳富蘇峰の誘いに応じて民友社に入る。以後『国民新聞』『国民之友』に,平民主義の観点から史論を中心に次々と文章を発表。北村透谷と文学論争を行う。30年2月民友社を退社するが,蘇峰とは生涯交遊があった。幕末維新期における長州藩の活動を記録する『防長回天史』の編纂に従事(1897~1899)。32年『信濃毎日新聞』主筆となり,多数の論説を発表した。36年『独立評論』を創刊。38年中村太八郎らと国家社会党を結成,普通選挙実施運動や東京市電値上げ反対運動に参加した。晩年は『源頼朝』(1909)や『徳川家康』(1915)など英雄伝記の執筆に精力をそそいだ。足利尊氏の業績を評価した『足利尊氏』(1909)は,44年南北朝正閏論問題に関連して,不適当な歴史書として筆禍事件に巻き込まれた。愛山の生涯の思想を貫いたのは,個人の独立と自主性を何よりも尊ぶ姿勢であった。主な文章や著書は,『山路愛山集』(明治文学全集35)などに収録されている。<参考文献>坂本多加雄『山路愛山』

(小宮一夫)

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百科事典マイペディア 「山路愛山」の意味・わかりやすい解説

山路愛山【やまじあいざん】

明治の歴史家,ジャーナリスト。本名弥吉。旗本の家の生れ。1892年民友社に入り,《国民新聞》および《国民之友》誌上に文学論・史論を発表,文学の現世主義,世益論を主張して北村透谷と論争した。1899年《信濃毎日新聞》主筆。のち《独立評論》を発行,《国民雑誌》の主筆。明治30年代以後は個人の自由を愛するがこれを保護するものは国家であるとして国家社会主義を唱えた。《荻生徂徠》《新井白石》《足利尊氏》等人物論にひいで,他に《現代日本教会史論》《明治文学史》など。
→関連項目防長回天史民友社

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山路愛山」の意味・わかりやすい解説

山路愛山
やまじあいざん
(1864―1917)

明治時代の史論家、政論家。本名は弥吉。微禄(びろく)の幕臣の子として、元治(げんじ)元年12月26日江戸に生まれる。幕府滅亡後静岡に移り、静岡英語学校、東洋英和学校に学ぶ。一時牧師を務めたが、1892年(明治25)には『国民新聞』記者となり、同紙や雑誌『国民之友』に史論、評論を発表し、また北村透谷(とうこく)や高山樗牛(ちょぎゅう)と論争した。99年『信濃(しなの)毎日新聞』主筆、1903年(明治36)には『独立評論』を創刊。05年には斯波貞吉(しばていきち)、中村太八郎(たはちろう)らと国家社会党を結成し、のち普通選挙期成同盟会評議員となるなど、社会運動にもかかわった。反骨精神をもち在野の人として通したが、その思想は儒教とキリスト教に発し、ナショナリズムに移り、社会主義にも理解を示し、独自の国家社会主義思想に到達した。『社会主義管見』『現代金権史』『足利尊氏(あしかがたかうじ)』『現代日本教会史論』などの著作のほか多数の論説がある。大正6年3月15日没。

[松永昌三]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山路愛山」の意味・わかりやすい解説

山路愛山
やまじあいざん

[生]元治1(1864).12.26. 江戸
[没]1917.3.15. 東京
明治の史論家,ジャーナリスト。幼名は左衛門,維新後弥吉。愛山は号。旗本の子として生れ,幕府滅亡後静岡に移り,のち上京して,東洋英和学校を卒業。キリスト教の伝道に従ったが,1892年徳富蘇峰の民友社に入り,『国民之友』に史論,文学論,政治評論を寄稿し,高山樗牛や北村透谷らと論争した。 99年『信濃毎日新聞』主筆,1903年『独立評論』を創刊し,儒教と唯物史観の独自の融合のうえに立って,国家社会主義を主張した。 05年斯波貞吉らと国家社会党を結成し,資本家の横暴の抑制と,国家の強化,領土の拡大を唱えた。主著『社会主義管見』 (1906) ,『現代金権史』 (08) ,『足利尊氏』 (09) ,『愛山史論』 (13) ,『現代富豪論』 (14) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山路愛山」の解説

山路愛山 やまじ-あいざん

1865*-1917 明治-大正時代の史論家,評論家。
元治(げんじ)元年12月26日生まれ。幕臣の子。クリスチャン。「国民之友」などに史論を発表,北村透谷と文学論争をする。明治32年「信濃毎日新聞」主筆となり,36年「独立評論」を創刊。38年斯波(しば)貞吉らと国家社会党を結成,社会運動にもかかわった。大正6年3月15日死去。54歳。本名は弥吉。著作に「社会主義管見」「現代金権史」など。
【格言など】人品を拝まずして衣裳を拝むは人類の通弊なり(「明治文学史」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「山路愛山」の解説

山路愛山
やまじあいざん

1864.12.26~1917.3.15

明治期の史論家・評論家。本名弥吉。江戸生れ。東洋英和学校で学び,キリスト教に入信。「護教」の主筆をへて「国民之友」「国民新聞」記者。経世論的実学を基礎とする明快な史論を展開した。北村透谷との人生相渉(そうしょう)論争は有名。その後「信濃毎日新聞」の主筆,「独立評論」「国民雑誌」の創刊など,ジャーナリストとして活躍。思想的には国家社会主義の立場をとる。著書は「頼襄(らいじょう)を論ず」「明治文学史」「日本英雄伝」など50冊に及ぶ。

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旺文社日本史事典 三訂版 「山路愛山」の解説

山路愛山
やまじあいざん

1864〜1917
明治・大正時代の評論家・歴史家
幕臣の家に生まれる。初めキリスト教伝道に従事,1892年民友社に入り『国民之友』『国民新聞』に史論・評論を発表し健筆をふるった。1903年『独立評論』を刊行し,国家社会主義を主張した。著書に『現代金権史』『徳川家康』『足利尊氏』など。

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世界大百科事典(旧版)内の山路愛山の言及

【国家社会主義】より

…社会政策,保護主義,専売や国有化を重視する国家社会主義はドイツの歴史的条件のなかから形成された。 日本において国家社会主義を唱えた代表的思想家としては山路愛山,高畠素之,北一輝がいる。共通する特色として,(1)国体の尊重,(2)国家=搾取機関説を廃した国家=統制機関説,(3)階級闘争と民族闘争の結合,(4)反議会主義があげられよう(ただし愛山には(4)の主張は稀薄である)。…

【国家社会党】より

…1905年,山路愛山斯波貞吉,中村太八郎らによって結成された政党。日露戦争後,平民社への弾圧を契機に日本社会党を結党したグループに対抗して創立された。…

【信濃毎日新聞】より

…1880年代に一時,帝政党の機関紙となったが,86年ごろ脱却,90年株式会社に組織を変更,小坂善之助が実権を握り不偏不党を宣言した。99年,山路愛山を主筆に迎え,このとき〈社長といえども編集に容喙(ようかい)せず〉の方針を明らかにし,以後編集の独立が社風として確立された。1922年夕刊発行を開始。…

【政商】より

…それゆえ,たとえば,三井,三菱といった〈政商〉が人格的表現に重点をおく考え方だとすれば,むしろその〈前期的な商業資本〉の運動形態に着目して〈政商資本〉と表現・記述される場合もある。 さて,山路愛山が〈最初の明治政府,ことにその中心の人格たる岩倉,大久保諸公が国家自ら主動の位置を取りて民業に干渉し,人民の進まぬ前に国家先ず進み,世話焼と鞭撻と,奨励と保護とを以て一日も早く,日本国を西洋の様に致したしと……しきりに人民の尻をたたき立てり。さてかように政府が自ら干渉して民業の発達を計るに連れておのずからできたる人民の一階級あり。…

【独立評論】より

山路愛山が発刊した個人雑誌。1903年1月創刊の月刊誌で16年8月まで刊行(その間1910年9月~13年1月までは愛山が《国民雑誌》主宰となったため休刊)。…

【内部生命論】より

…1893年《文学界》第5号に発表。この論文は,山路愛山との間で激しく交わされた〈人生相渉論争〉を踏まえ,あらためて自分の思想的な立場を原理的に明らかにするために書かれた。そこで透谷が中心に置いたのは,もともとキリスト教からきている〈生命〉の概念である。…

※「山路愛山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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