岡崎城(読み)オカザキジョウ

デジタル大辞泉 「岡崎城」の意味・読み・例文・類語

おかざき‐じょう〔をかざきジヤウ〕【岡崎城】

岡崎市にある城。徳川家康の祖父松平清康が居城とし、家康もここで生まれ、一時本拠とした。明和6年(1769)以降は本多氏が在城。第二次大戦後、天守閣を復興。竜が城。

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精選版 日本国語大辞典 「岡崎城」の意味・読み・例文・類語

おかざき‐じょう をかざきジャウ【岡崎城】

愛知県岡崎市にあった城。康正元年(一四五五)西郷稠頼(つぐより)築城。大永四年(一五二四)徳川家康の祖父松平清康が攻略して居城とした。のち、田中氏、本多氏などが城主となる。昭和三四年(一九五九)古風な下見板張りを模して天守閣を復元。龍ケ城。

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日本歴史地名大系 「岡崎城」の解説

岡崎城
おかざきじよう

[現在地名]岡崎市康生

矢作川とおと(菅生川)の合流点に近い乙川北岸台地上の西南先端に位置する平山城。りゆう城・竜ヶ城とも称され、西郷弾正左衛門頼嗣が菅生すごう郷の竜頭山に康正元年(一四五五)に築城したのが始まりと伝えられる。しかし、頼嗣はこれに先立って乙川南岸の明大寺みようだいじの地に城を築いており(三河聡視録)、松平清康が岡崎に入る頃まではこれが本城であって、竜頭山に築かれた城は初め砦のようなものであったろう。「宗長手記」に「矢矧の渡りして妙大寺(中略)今は岡崎といふ。松平次郎三郎の家城なり」とある。次郎三郎は清康のことであり、明大寺の地に清康の城があったとみられる。宗長の時代、東海道は明大寺を通っていた。近世の城地に岡崎城が本格的に移るのは、清康の勢力が強大化した享禄三年(一五三〇)頃と思われる。

岡崎城は清康・広忠・家康の本城となったが、近世の城の原型は家康が元亀元年(一五七〇)浜松はままつ(現静岡県)へ移るまでにほぼ形成されたとみられる。天正一八年(一五九〇)に家康が関東へ移封された後、田中吉政が入部して大規模な築城工事を行った。吉政は文禄元年(一五九二)に後世田中たなか堀と称される東・西・北の総延長四・七キロにわたる総堀をつくり、内側に土居を築造した。筑後柳河やながわに移封された吉政に代わって、慶長六年(一六〇一)に入封した本多氏は、康重の代元和三年(一六一七)に天守閣を建て、城西の沼地を埋めて白山はくさん曲輪をつくった。

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日本の城がわかる事典 「岡崎城」の解説

おかざきじょう【岡崎城/岡竒城〈愛知県〉】

愛知県岡崎市にあった城郭。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。もともとは連郭式の平山城(ひらやまじろ)だったが、江戸時代初期の改修により平城となった。戦国時代から安土桃山時代にかけての徳川氏(松平氏)の居城で、徳川家康はこの城で誕生した。江戸時代には岡崎藩の藩庁が置かれた城である。菅生川と矢作川の合流点近くの龍頭山という丘陵につくられた城で、もともとは室町時代前期の三河国守護仁木氏の守護代であった西郷稠頼が築いた龍燈山(りゅうとうざん)城があったが、この城を奪った松平清康(徳川家康の祖父)が改修拡張して岡崎城がつくられた。その子松平広忠(家康の父)が1549年(天文18)に家臣の謀反により殺害されると今川氏に接収され、今川氏の城代が置かれることになった。1560年(永禄3)、桶狭間の戦いで今川義元が敗死した後、今川氏の部将として参戦していた松平元康(のちの家康)は岡崎城を奪還して居城とし、今川氏から独立した。その後、1570年(元亀1)、家康は本拠を浜松城(静岡県浜松市)に移し、岡崎城には嫡子の松平信康を入城させたが、信康が謀反の疑いにより自刃した後は重臣の石川数正、本多重次らが城代をつとめた。1590年(天正18)、家康が関東に移封されると、岡崎城には豊臣の田中吉政が入城し、城を拡張して石垣や城壁を整備し、近世城郭へと変え、また城下町の整備を行った。江戸時代に入ると、幕府は岡崎城を家康生誕の城として重視し、譜代大名が歴代の城主をつとめた。1600年(慶長5)から1645年(正保2)にかけて城主(藩主)をつとめた徳川譜代の本多康重、康紀、忠利の3代が城の大改修に着手し、平城としてつくり変えたほか、1617年(元和3)には本丸に3重3階の天守が建設された。明治維新後の1871年(明治4)の廃藩置県で岡崎県が発足した際には同城に県庁が置かれ、のちに額田県に合併された後も県庁が置かれた。しかし、その後の統合で県庁が名古屋市に移り、1873年(明治6)には廃城令により廃城となり、天守以下の建物が撤去、払い下げとなった。このため、当時の建造物は現存せず、また、多くの縄張りも失われて、本丸およびその周辺のいくつかの曲輪(くるわ)と石垣、堀などの遺構を残すのみになっている。現在ある天守は1959年(昭和34)に再建されたものである。現在、城跡は岡崎公園として整備されている。同公園は日本さくら名所100選に選ばれた桜の名所として知られている。名鉄名古屋本線東岡崎駅から徒歩約15分。◇龍城ともよばれる。

おかざきじょう【岡崎城〈神奈川県〉】

神奈川県平塚市から伊勢原市にかけての一帯にあった平山城(ひらやまじろ)(丘城)。伊勢原市指定史跡。室町時代の三浦氏の居城。鎌倉幕府の成立に貢献した三浦義明の弟義実(岡崎氏)が築いた居館がその起源とされる。1455年(康正1)の武蔵分倍河原の合戦に上杉方として出陣した三浦介時高が奪い居城とした。その後、時高は養子義同(よしあつ)(道寸)と対立、義同は1494年(明応3)、新井城(三浦市)の時高を攻め滅ぼし、岡崎城を居城とした。このころ、伊豆の韮山城伊勢新九郎(北条早雲)は大森藤頼の小田原城を急襲してこれを奪い、その後、三浦義同の岡崎城を急襲してこれを奪取した。岡崎城から逃れた義同・義意父子は住吉城(逗子市)に立て籠るがこれもおとされ、新井城、三崎城(三浦市)に立て籠ったが、早雲は1516年(永正13)、新井城の義同・義意父子を滅ぼして、相模を統一した。その後、岡崎城は北条氏の城となったと考えられるが記録はない。その後も北条氏の城として存続し、1590年(天正18)の小田原の役で廃城になったと考えられる。無量寺(伊勢原市岡崎)の周辺に曲輪(くるわ)、空堀、堀切、櫓(やぐら)台などの遺構が残っている。小田急小田原線伊勢原駅から徒歩約20分。

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百科事典マイペディア 「岡崎城」の意味・わかりやすい解説

岡崎城【おかざきじょう】

三河国額田(ぬかた)郡岡崎(現愛知県岡崎市)にあった中世から近世の城。矢作(やはぎ)川支流乙(おつ)川北岸台地上にある平山城で,竜(りゅう)城・竜ヶ城とも称される。1455年西郷稠頼(しげより)により築かれたと伝える。一帯の地は文明(1469年−1487年)頃から岡崎松平氏の支配下に入り,松平清康の時には乙川の南岸明大(みょうだい)寺に清康の城があった。1530年頃北岸の竜頭山に同氏の本城として新しい岡崎城が築かれたようである。清康の子広忠の時今川氏の勢力下に入ったが,1560年桶狭間の戦後広忠の子元康(徳川家康)が城に復し,1570年まで在城した。その後嫡子信康の居城となり,信康自刃の1579年からは城代支配。1590年の家康関東入国後田中吉政が入部,堀・土塁の築造をはじめ大規模な城の拡張・整備を行い,近世城郭としての岡崎城の原型が形づくられた。関ヶ原の戦後田中氏に代わって本多康重が5万石で入部,本多氏の時代には天守閣建造,総曲輪の整備などが行われている。以後岡崎藩の本城として幕末に至った。1873年−1874年に城の大部分は解体され,本丸・二の丸跡などは公園となった。1617年に完成した天守閣は1959年に復元されている。
→関連項目岡崎[市]引間

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改訂新版 世界大百科事典 「岡崎城」の意味・わかりやすい解説

岡崎城 (おかざきじょう)

三河国岡崎(現,愛知県岡崎市)にあった中・近世の城郭。矢作川支流乙川北岸の標高20m前後の丘陵西端に位置し,別名竜ヶ城,竜城。西郷稠頼が1455年(康正1)創築と伝える。応仁の乱後岡崎松平氏3代が在城し,1524年(大永4)安城の松平清康が入手して本城とした。49年(天文18)今川義元の支配下に入ったが,桶狭間の戦後に徳川家康が復帰し,70年(元亀1)浜松移転まで在城。その後嫡子信康の居城となり,79年(天正7)以後は城代支配。家康の関東移封後田中吉政が城と城下町の拡張と改造を行い,本丸からみて南,東は3重,北は4重,西は8重の堀,川に囲まれた近世の城の原型を完成した。関ヶ原の戦後は岡崎藩5万石の本城であったが,1874年解体され,本丸,二の丸跡は公園とされた。1617年(元和3)完成の3層3重地下1階の天守は1959年に復元された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡崎城」の意味・わかりやすい解説

岡崎城
おかざきじょう

室町期から江戸期の城。愛知県岡崎市康生(こうせい)町の矢作(やはぎ)川と大平(おおひら)川の合流点に近い霧降(きりふり)山南西端を本丸とし、二の丸、三の丸、浄瑠璃曲輪(じょうるりくるわ)などを配した平山城(ひらやまじろ)。1455年(康正1)に三河守護代西郷稠頼(つぐより)が築いたのが初めといわれる。のち松平清康(きよやす)、広忠(ひろただ)が居城し、徳川家康はこの城で生まれている。一時期家康の本城となったが、江戸期には本多、水野、松平など譜代(ふだい)大名の居城となった。1959年(昭和34)天守閣が復興された。

[小和田哲男]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岡崎城」の意味・わかりやすい解説

岡崎城
おかざきじょう

竜ヶ城ともいう。愛知県岡崎市にある平城。もと西郷氏の居城として築城されたのに始るが,のち松平氏に移った。大永4 (1524) 年松平清康が西郷信貞より譲られて入城。孫の徳川家康のとき,大改築され,その後徳川氏が浜松,次いで江戸とその居城を移してからは,家康の一族,または譜代の重臣,田中,水野,本多の諸氏に受継がれ,版籍奉還まで続いた。明治に入って取りこわされたが,1959年3層の天守閣が復興された。

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事典・日本の観光資源 「岡崎城」の解説

岡崎城

(愛知県岡崎市)
日本100名城」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の岡崎城の言及

【岡崎[市]】より

…人口32万2621(1995)。縄文時代早期から矢作(やはぎ)川,乙(おと)川沿いに居住が営まれ,古くから水陸交通の要衝であったが,15世紀半ば岡崎城が築かれ,近世には5万石の城下町,岡崎,藤川は東海道の宿場町,矢作川の水陸貨物の中継河港町として栄えた。明治に入り,東海道線(1888開通)を忌避したため交通集落としての機能は衰えたが,1923年に名古屋と豊橋を結ぶ愛知電鉄(現,名古屋鉄道)が開通して活況を取りもどした。…

【徳川家康】より

…江戸幕府初代将軍。1542年12月26日,三河国岡崎城内で生まれる。幼名は竹千代。…

※「岡崎城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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