岡本則録 (おかもとのりふみ)
生没年:1847-1931(弘化4-昭和6)
明治期の数学者,数学教育者。初め後藤姓。日本数学会の前身である東京数学会社の創立に参加し,この学会の発展に尽力する。東京数学会社の訳語会で数学の用語の統一に力を尽くした。公理,単位,数学などの用語は,岡本の提案により決定した。大阪師範学校長,学習院学監,松山中学校長,成城小学校長などを歴任する。その間,中条澄清ほか多くの数学教育者を養成した。和算家長谷川弘の弟子であったので,和算史にも造詣が深く,遠藤利貞や三上義夫の和算史の研究に力を貸した。多くの和算書を収集し,これらは東北大学に岡本文庫として収められている。晩年,帝国学士院(日本学士院)の蔵書を整理して,没後《和算図書目録》(1932)が刊行され,研究者に利用されている。
執筆者:下平 和夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
岡本則録 おかもと-のりぶみ
1847-1931 明治-大正時代の数学者。
弘化(こうか)4年10月30日生まれ。和算家長谷川弘(ひろむ)に師事し,のち洋算に転じる。大阪師範校長,学習院学監をへて,明治11年東京数学会社社長となり,数学用語の選定につとめた。晩年は学士院で蔵書目録の作成にあたった。昭和6年2月17日死去。85歳。江戸出身。旧姓は後藤。幼名は彦一郎。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
世界大百科事典(旧版)内の岡本則録の言及
【東京数学会社】より
…1877年9月,[神田孝平](たかひら)の提案により日本中の数学者が一堂に会して発足した学会である。初代の総代は神田孝平と柳楢悦(ならよし)で,後に[岡本則録](のりふみ)が社長となる。77年11月から機関誌《東京数学会社雑誌》を刊行する。…
【和算】より
…初めは西洋数学(洋算)の普及に尽力し,やがて数学用語の統一に貢献した。長谷川弘の弟子[岡本則録](1847‐1931)はこの学会の発展に尽力した中心人物の一人である。和算の終りをこの東京数学会社の発足に置く学者が多い。…
※「岡本則録」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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