岩田藤七(読み)イワタトウシチ

デジタル大辞泉 「岩田藤七」の意味・読み・例文・類語

いわた‐とうしち〔いはた‐〕【岩田藤七】

[1893~1980]ガラス工芸家。東京の生まれ。ガラス工芸を美術の一ジャンルとして確立。特に色ガラス器にすぐれた表現を示した。芸術院会員。

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改訂新版 世界大百科事典 「岩田藤七」の意味・わかりやすい解説

岩田藤七 (いわたとうしち)
生没年:1893-1980(明治26-昭和55)

ガラス工芸家。東京日本橋に生まれる。1918年東京美術学校金工科を卒業後,西洋画科に再入学し,岡田三郎助に師事した。卒業後ガラス製法を学び,28年帝展出品の《吹込ルビー色硝子花瓶》が特選となり,工芸作家の地歩を築いた。吹きガラスを創作の基本とし,華麗で流動感のある色ガラスの作品に特色がある。37年のパリ万国博覧会で銀賞をうけ,戦前戦後を通じて,ガラス工芸作家の主導的地位にあった。晩年はガラスによる壁面装飾にも新しい試みを示した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岩田藤七」の意味・わかりやすい解説

岩田藤七
いわたとうしち
(1893―1980)

ガラス工芸家。東京・日本橋に生まれる。初め東京美術学校金工科に入学したが、西洋画科に転じて1923年(大正12)に卒業。その後ガラスに傾倒するようになり、27年(昭和2)の帝展第四部美術工芸の開設以後、毎年ガラス工芸品を同展に発表。宙吹き法による、型にはまらない自在な造形を可能にし、色ガラス、金箔(きんぱく)入り吹きガラス、雲母(うんも)入りガラス、泡入りガラスを考案して装飾性を高め、個性の表現法として定着させた。また自ら31年に岩田硝子(ガラス)製作所を開いてガラス工芸の水準高揚に努め、後進指導にも大いに尽力した。日本芸術院会員で、70年(昭和45)に文化功労者に叙せられた。

[矢部良明]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岩田藤七」の解説

岩田藤七 いわた-とうしち

1893-1980 昭和時代のガラス工芸家。
明治26年3月12日生まれ。東京美術学校(現東京芸大)を卒業後ガラス製法をまなび,昭和3年から3年連続帝展特選。6年岩田硝子(ガラス)製作所を設立。吹きガラスの技法もとにガラス工芸に新分野をひらいた。26年芸術院賞,29年芸術院会員,45年文化功労者。昭和55年8月23日死去。87歳。東京出身。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岩田藤七」の意味・わかりやすい解説

岩田藤七
いわたとうしち

[生]1893.3.12. 東京
[没]1955.8.23. 東京
ガラス工芸家。東京美術学校金工科,洋画科卒業。今村繁三よりガラス技術を学び,1944年岩田硝子製作所を設立。主として色ガラスの宙吹き作品によって,ガラス工芸分野で独自のジャンルを築いた。 51年日本芸術院賞,69年毎日芸術賞受賞,70年文化功労者に推された。

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百科事典マイペディア 「岩田藤七」の意味・わかりやすい解説

岩田藤七【いわたとうしち】

ガラス工芸家。東京生れ。東京美術学校金工科・洋画科卒。その後ガラス制作にうつり,吹きガラスに優美な形と肌(はだ)を追求し,新分野を開く。1937年のパリ万国博覧会で銀賞を受けるなど,戦前戦後を通じてガラス工芸作家の主導的地位にあった。岩田工芸硝子を経営。

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