岸田俊子(読み)きしだとしこ

精選版 日本国語大辞典 「岸田俊子」の意味・読み・例文・類語

きしだ‐としこ【岸田俊子】

女性運動家。京都生まれ。号は湘烟(しょうえん)。明治初期、自由民権男女同権を説いた。著書「善悪の岐(ちまた)」など。文久三~明治三四年(一八六三‐一九〇一

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デジタル大辞泉 「岸田俊子」の意味・読み・例文・類語

きしだ‐としこ【岸田俊子】

[1864~1901]婦人運動家。京都の生まれ。号は湘烟しょうえん。明治初期、自由民権・男女同権を説いた。自由党副総理(副党首)中島信行と結婚し、外交界にも活躍。著「善悪のちまた」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岸田俊子」の意味・わかりやすい解説

岸田俊子
きしだとしこ
(1863―1901)

自由民権期の女性運動家。湘烟(しょうえん)(湘煙)と号す。文久(ぶんきゅう)3年12月5日、京都の呉服商の家に生まれる。女子師範学校を病気退学ののち、1879年(明治12)宮中女官に抜擢(ばってき)され1年余り出仕皇后に進講したが、宮廷生活に満足できず病気を理由に辞任。1881年土佐旅行を契機に自由民権運動に参加した。弁舌に優れ、全国を遊説して女権拡張を説き人気を集めた。1884年自由党副総理中島信行(のぶゆき)と結婚、中島俊子の名でも知られる。実業家・政治家の中島久万吉(くまきち)は長男。結婚後も、自由党系の新聞『自由燈(とう)』に10回にわたって「同胞姉妹に告ぐ」を連載、男女平等を訴えたのをはじめ、『女学雑誌』などに多くの評論を書いた。また新栄女学校、フェリス和英女学校などで教壇に立ち、教育にも熱心であった。夫信行が衆議院議長や貴族院議員イタリア大使と栄進したため、俊子も上流婦人の道を歩んだとされるが、生涯真実を追求し、女性の自立を求め続けた点は注目される。夫の死から2年後の1901年(明治34)5月12日、38歳で病没した。遺稿集『湘烟日記』(1903)がある。

[米田佐代子]

『大木基子・西川祐子編『湘煙日記』(1985・不二出版)』『鈴木裕子編『岸田俊子評論集』(1985・不二出版)』『西川祐子著『花の妹――岸田俊子伝』(1986・新潮社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「岸田俊子」の意味・わかりやすい解説

岸田俊子 (きしだとしこ)
生没年:1863-1901(文久3-明治34)

明治時代の女性民権運動の先駆者。京都の呉服商に生まれ,17歳のとき文事御用掛として宮中に出たが2年で退く。立志社の坂崎紫瀾らと交友して自由民権運動に近づき,1882年大阪,岡山などで男女同権を演説する。岡山遊説中,聴衆のなかに景山福田)英子がいて影響を与える。翌年大津での演説〈箱入娘〉が政治演説とみなされ集会条例違反で罰金刑をうける。84年《自由の灯》に載せた〈同胞姉妹に告ぐ〉には,男尊女卑は野蛮な欲心からでるもので,男女の関係は愛憐をもってせよと述べている。この年自由党副総理中島信行と結婚,92年にはイタリア公使夫人も経験した。なお87年横浜フェリス女学校教師となる。《善悪の岐》の著書のほか,湘烟と号し〈湘烟日記〉をのこす。
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朝日日本歴史人物事典 「岸田俊子」の解説

岸田俊子

没年:明治34.5.25(1901)
生年:万延1.12.4(1861.1.14)
自由民権運動家,女権論者。湘煙と号した。京都の古着商岸田茂兵衛とタカの子。18歳で宮中文事御用掛に出仕。その後自由民権運動に参加。明治15(1882)年初めての演説を行う。各地で民権と女権を一体のものとしてとらえた演説を行い,多くの女性が民権運動に参加する契機をつくった。16年「函入娘」の演説で拘引,留置され罰金刑を受ける。18年自由党副総理中島信行と結婚。のち『女学雑誌』を言論活動の主な場とする。20年フェリス英和女学校教授。25年イタリア公使として赴任する夫に同行。夫婦共に肺結核にかかり翌年帰国,闘病生活を送った。その足跡は『湘煙日記』にたどることができる。<著作>鈴木裕子他編『湘煙選集』全4巻<参考文献>西川裕子『花の妹―岸田俊子伝』

(三鬼浩子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岸田俊子」の意味・わかりやすい解説

岸田俊子
きしだとしこ

[生]文久3(1863).12.5. 京都
[没]1901.5.25. 神奈川,大磯
民権運動家,小説家。本名俊,のち俊子に改名。中島湘烟(しょうえん)の名でも知られる。京都の呉服商小松屋の長女として生まれた。17歳で宮中に出仕し文事御用掛を務め,皇后に進講したが 1881年に退官。自由民権運動に参加し,男女同権を説いて地方を遊説した。1884年自由党副総理の中島信行と結婚,その後フェリス和英女学校の教師を務め,1892年イタリア公使に任命された夫とイタリアに赴いたが,夫婦とも病を得て帰国した。『善悪の岐(ふたみち)』(1887),『山間の名花』(1889)などの小説のほか遺稿集『湘烟日記』(1903)がある。

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百科事典マイペディア 「岸田俊子」の意味・わかりやすい解説

岸田俊子【きしだとしこ】

婦人運動の先駆者。号は湘烟(しょうえん)。京都の生れ。1882年以後自由民権運動に参加,自由民権とともに男女同権を主張,景山(福田)英子らに影響を与える。1884年自由党副総理中島信行と結婚。著書《湘烟日記》。→福田英子
→関連項目女学雑誌

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「岸田俊子」の解説

岸田俊子
きしだとしこ

1863.12.5~1901.5.25

明治期の自由民権運動の女権弁士・作家。号は湘煙(しょうえん)。京都生れ。15歳で宮中に出仕,漢学を進講する。1882年(明治15)から自由民権運動に参加,各地を遊説して評判になる。83年滋賀県での演説「函入娘」で官吏侮辱罪と集会条例違反の嫌疑をうけ投獄される。中島信行との結婚後は「女学」に転じ,評論・随筆・小説・日記・漢詩などの執筆活動を行った。評論「同胞姉妹に告ぐ」は男女同権を主張した画期的な作品。

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旺文社日本史事典 三訂版 「岸田俊子」の解説

岸田俊子
きしだとしこ

1863〜1901
明治時代の自由民権運動家
京都の生まれ。1882年以後自由民権運動に参加。男女同権を説いて,景山英子らの共鳴者を得た。自由党副総理中島信行と恋愛結婚。'87年保安条例公布とともに運動から手を引いた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岸田俊子」の解説

岸田俊子 きしだ-としこ

中島俊子(なかじま-としこ)

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世界大百科事典(旧版)内の岸田俊子の言及

【中島信行】より

…81年自由党の結成にあたって副総理となり,ついで大阪の立憲政党の総理に推された。女性自由民権家で女権拡張論者の岸田俊子と結婚。第1回総選挙に当選して初代議長となった。…

※「岸田俊子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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