島津忠久(読み)しまづただひさ

百科事典マイペディア 「島津忠久」の意味・わかりやすい解説

島津忠久【しまづただひさ】

鎌倉時代武将で,島津氏初代とされる。法名は得仏(とくぶつ)。惟宗(これむね)姓で,近衛(このえ)家の家司(けいし)惟宗氏の出か。1185年島津荘下司(げし)職,翌年惣地頭職に補任。1189年には奥州征伐(合戦)に参加した。1197年薩隅両国家人奉行人(守護)となり,続いて日向国・越前国の守護となった。1203年比企氏(ひきし)の乱に縁座し,薩隅日三州守護・地頭職を没収された。のち薩摩国のみ復職。薩摩下向については諸説あるが不詳。被官を下向させ,自身は京都または鎌倉にとどまっていたとも考えられる。
→関連項目島津荘禰寝院

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「島津忠久」の意味・わかりやすい解説

島津忠久
しまづただひさ
(?―1227)

鎌倉初期の武将。島津氏の初代。「島津家譜」などの系図類によれば、源頼朝(よりとも)の庶長子、母は比企能員(ひきよしかず)の妹丹後局(たんごのつぼね)で、近衛(このえ)家の家司(けいし)惟宗(これむね)広言養子とするが疑問。近衛家の家司出自説が有力である。生年については1179年(治承3)説があるが不詳。姓は惟宗、のち藤原とも称した。1185年(文治1)6月、伊勢国(いせのくに)須可荘(すかのしょう)・波出御厨地頭職(はでのみくりやじとうしき)に補任(ぶにん)、以降、島津荘下司職(げししき)・信濃国(しなののくに)塩田荘(しおだのしょう)地頭職に補任された。89年7月の奥州藤原氏征伐に従軍。97年(建久8)12月、大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)の守護となり、のち日向(ひゅうが)の守護も兼ねた。1203年(建仁3)9月、比企能員の乱に縁座し、3か国の守護などを罷免されたが、まもなく薩摩の守護にのみ復した。13年(建保1)の和田義盛(よしもり)の乱に戦功をたて、21年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱後には、功により越前(えちぜん)守護となった。官途は、初め左兵衛尉(さひょうえのじょう)、のち左衛門尉(さえもんのじょう)、25年(嘉禄1)大夫尉(たいふのじょう)となり、のち豊後守(ぶんごのかみ)に任ぜられた。嘉禄(かろく)3年6月18日、鎌倉で没す。

[菊池紳一]

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改訂新版 世界大百科事典 「島津忠久」の意味・わかりやすい解説

島津忠久 (しまづただひさ)
生没年:?-1227(安貞1)

鎌倉時代の薩摩・大隅・日向国守護。法名得仏。島津氏初代,惟宗姓。系図は源頼朝庶子。母は比企能員妹丹後局,惟宗広言の養子とするが不詳。幕末に以仁王遺子説が生まれたが誤り。近衛家の家司惟宗氏の出か。生年については1179年(治承3)説があるが疑問。85年(文治1)島津荘下司職,翌年惣地頭職補任。89年には島津荘荘官を率いて奥州征伐に参加。97年(建久8)薩隅両国家人奉行人(守護)となり,ついで日向・越前国守護。1203年(建仁3)比企氏の乱に縁座。三州守護・地頭職没収。その後薩摩国にのみ復職。21年(承久3)の承久の乱に武功をたてた。薩摩下向の時期については1186年ほか諸説あるが不詳。被官酒匂(さかわ)・本田氏らを下向させ,自身は主として京都または鎌倉にとどまったとも考えられる。室は畠山氏。若狭国守護津々見忠季は弟。墓は鎌倉(島津重豪の修営),野田感応寺,鹿児島五道院(本立寺)にある。
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朝日日本歴史人物事典 「島津忠久」の解説

島津忠久

没年:安貞1.6.18(1227.8.1)
生年:生年不詳
鎌倉前期の武士。摂関家の下家司を世襲した惟宗氏の出身。左兵衛尉に任じて皇嘉門院聖子に仕え,同院領山城国(京都府)上久世荘内石原方に権益を有した。源頼朝の乳母比企尼の縁者であったことから鎌倉御家人となり,文治2(1186)年南九州の大荘園である島津荘の地頭職を与えられて島津氏を称した(島津氏初代)。建久8(1197)年薩摩・大隅守護,その後,日向の守護も兼ねたが,建仁3(1203)年の比企氏の乱に連座して収公される。のち薩摩のみ旧に復した。承久の乱後,越前守護にも補された。幕府出仕後も京都で活動することが多く,官は左衛門尉・検非違使から豊後守にまで進んだ。<参考文献>野口実「惟宗忠久をめぐって」(『立命館文学』521号)

(野口実)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「島津忠久」の解説

島津忠久
しまづただひさ

?~1227.6.18

鎌倉前期の武将。従五位下・豊後守。島津氏の祖。惟宗(これむね)姓。源頼朝の子で惟宗広言の養子とする説もあるが,近衛家の家司(けいし)惟宗氏の出身とする説が有力。頼朝に仕え,1186年(文治2)薩摩国島津荘地頭となる。97年(建久8)薩摩・大隅両国の守護となり,日向国守護も兼ねるが,1203年(建仁3)比企(ひき)氏の乱に連坐し所職を没収される。のち薩摩国については回復し,21年(承久3)には越前国守護に任じられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島津忠久」の解説

島津忠久 しまづ-ただひさ

?-1227 鎌倉時代の武将。
島津氏初代。文治(ぶんじ)2年(1186)南九州の島津荘の地頭となり,島津を称す。5年源頼朝の奥州藤原攻めに参加。建久8年薩摩(さつま)・大隅(おおすみ)守護,のち日向(ひゅうが)守護もかねる。比企能員(ひき-よしかず)の乱に連座し罷免されたが,のち薩摩守護のみ復職。承久(じょうきゅう)の乱後,越前(えちぜん)守護にもなる。嘉禄(かろく)3年6月18日死去。本姓は惟宗(これむね)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島津忠久」の意味・わかりやすい解説

島津忠久
しまづただひさ

[生]治承3(1179)
[没]嘉禄3(1227).6.18. 鎌倉?
鎌倉時代の武将。島津氏の祖といわれる。源頼朝の庶子ともいわれ,出自は諸説あって不明。鎌倉幕府の成立で,薩摩島津荘地頭職ならびに薩摩,大隅,日向3国守護職に補任された。

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世界大百科事典(旧版)内の島津忠久の言及

【薩摩国】より

…旧国名。薩州。鹿児島県西半部。
【古代】
 西海道に属する中国(《延喜式》)。大隅国と同じく日向国より分出し,合わせて南九州の三国,奥三州などと呼ばれた。《日本書紀》白雉4年(653)7月条に〈薩麻之曲竹島之間〉とみえ,《続日本紀》大宝2年(702)8月条に薩摩・多褹(たね)を征討し,戸を校(かんが)え吏を置く,10月条に唱更(はやひと)国司の言上で国内の要害に柵を建て兵を置くとあり,その説明に唱更国とは今の薩摩国府なりとあることから,このころ薩摩国は日向国より分出設置されたと思われる。…

※「島津忠久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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