島田蕃根(読み)シマダバンコン

デジタル大辞泉 「島田蕃根」の意味・読み・例文・類語

しまだ‐ばんこん【島田蕃根】

[1827~1907]幕末・明治期の仏教学者。周防すおうの人。初め、修験道教学院の住職一切経校勘に努力し、福田行誡ふくだぎょうかいとともに縮刷大蔵経刊行

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「島田蕃根」の意味・読み・例文・類語

しまだ‐みつね【島田蕃根】

幕末・明治初期の教育者官吏山口県儒家の出。天台宗修験道の大先達となったが、維新に際して還俗(げんぞく)。「縮刷大蔵経」の刊行を達成するなど、仏教保護につとめた。文政一〇~明治四〇年(一八二七‐一九〇七

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「島田蕃根」の意味・わかりやすい解説

島田蕃根
しまだばんこん
(1827―1907)

明治時代の仏教学者。周防(すおう)(山口県)徳山藩の人。文政(ぶんせい)10年12月28日生まれ。幼名は円真、如縄道人(にょじょうどうにん)、暁華懺士(ぎょうかせんし)、懺翁(せんおう)道人、天心居士(てんしんこじ)、月竹(げっちく)道人などと称した。初め天台宗本山派修験道(しゅげんどう)教学院住職を務め、のち藩主の命により興譲館(こうじょうかん)の教授となる。1872年(明治5)教部省設置に際し大録(だいろく)に招かれてのち、内務省社寺局、内閣記録局などを歴任。この間、正確で携帯便利な蔵経開版を発願し、福田行誡(ふくだぎょうかい)らの協力を得て縮刷大蔵経(だいぞうきょう)を刊行した。また育児院の創設、聖徳太子奉賛にも尽くした。明治40年9月2日示寂。

[金田諦応 2017年7月19日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「島田蕃根」の解説

島田蕃根

没年:明治40.9.2(1907)
生年:文政10.11.8(1827.12.25)
明治時代の仏教学者。活字版『大日本校訂縮刻大蔵経』を出版した。周防(山口県)徳山出身。「みつね」ともいう。家は代々天台宗本山派修験道の行者で,仏教,儒教,神道を深く学び儒家らとの親交も深かったため,幕末徳山藩主の命により京畿に赴き勤皇説を唱える。維新後,廃藩置県に尽力したのち上京し,教部省内務省社寺局を歴任し明治初期の宗教行政の確立に努めた。明治12(1879)年福田行誡,獅岳快猛らと共に,『大蔵経』刊行を企画する。弘教書院を設立し,高麗版を底本として宋・元・明版を対校した厳密な校訂の通称『縮刷大蔵経』(縮刷蔵,縮蔵とも)を5年かけて刊行した。

(武田道生)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島田蕃根」の解説

島田蕃根 しまだ-ばんこん

1827-1907 幕末-明治時代の仏教学者。
文政10年11月8日生まれ。役藍泉(えんの-らんせん)の孫。周防(すおう)(山口県)徳山の天台宗本山派修験道(しゅげんどう)教学院の住職。維新後,還俗(げんぞく)して徳山藩校興譲館の教授となる。のち教部省,内務省社寺局などに出仕。福田行誡(ぎょうかい)らと「縮刷大蔵経」を刊行した。明治40年9月2日死去。81歳。名は「みつね」ともよむ。法名は円真。

島田蕃根 しまだ-みつね

しまだ-ばんこん

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島田蕃根」の意味・わかりやすい解説

島田蕃根
しまだばんこん

[生]文政10(1827)
[没]1907
明治の教育者。仏僧出身。『大日本校訂縮刻大蔵経』 (『縮刷大蔵経』ともいう) を刊行した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android