嶋宮(読み)しまのみや

日本歴史地名大系 「嶋宮」の解説

嶋宮
しまのみや

石舞台いしぶたい古墳の下手(西方)にあったと推定される。「日本書紀」推古天皇三四年五月条に「大臣は稲目宿禰の子なり。性、武略有りて、亦弁才有り。以て三宝を恭み敬ひて、飛鳥河の傍に家せり。乃ち庭の中に小なる池を開れり。仍りて小なる嶋を池の中に興く」とある。嶋宮はこの蘇我馬子邸宅の跡に造られ、その後天武天皇の離宮となり、さらに皇太子草壁皇子の嶋宮となったと考えられる。

「万葉集」巻二に、草壁皇子死去の際、柿本人麻呂やその舎人哀傷して詠んだ歌二三首のなかに、

<資料は省略されています>

とある。これによって、上下の池があり、その池は磯のみぎわの湾曲したまがりの池であり、池中には小さな島・放ち鳥がみられ、宮の東門付近に激湍のあったことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「嶋宮」の意味・わかりやすい解説

嶋宮 (しまのみや)

7世紀代から8世紀中葉ごろまで,飛鳥に所在した宮。壬申の乱の前夜,大海人皇子が近江を脱出し嶋宮に一泊して,翌日吉野に至ったとするのが,その初見記事である。天武朝には,皇太子,草壁皇子(日並皇子)の宮となったらしい。《万葉集》巻二に,草壁皇子の没時に東宮の舎人(とねり)たちが作った挽歌23首がみえている。それらによると,嶋宮には,大きい宮殿があり,東門は滝つ瀬に面していた。また,宮内には,勾(まがり)の池,上の池があり,鳥が放し飼いにされていたし,681年(天武10)9月には,周芳国から貢上された赤亀が放たれたこともある。嶋宮の池には,中島があり,荒磯も造られ,石(いわ)ツツジなども植え込まれていた。この嶋宮は,蘇我馬子飛鳥川の辺に営んだ家に由来する。馬子の死去を記す推古紀34年(626)5月条によれば,馬子の家の庭中には,小池が掘られ,池中には島が起こされていて,その様は嶋宮に酷似している。馬子の家は,その後,蝦夷,入鹿と伝領され,大化のクーデタ後は,天皇家の領有となって,天智天皇の祖母である嶋皇祖母命(田村皇女。糠手姫皇女とも),大海人皇子,草壁皇子へと伝領されたらしい。690年(持統4)3月に,嶋宮の稲を,京・畿内の80歳以上の者に与えているが,これは,前年3月に没した草壁皇子の菩提を弔うためであるらしい。その後,734年(天平6)には,興福寺西金堂の造営に際し,嶋宮のわらが運ばれているし,750年(天平勝宝2)には,嶋宮の奴婢が東大寺に貢進されている。平城遷都後は,飛鳥の嶋宮は,離宮であった可能性が大きい。嶋宮の場所については,従来から,奈良県高市郡明日香村島ノ庄とする説が有力である。〈島ノ庄〉の地名が,馬子の嶋の家や嶋宮の名を伝えていると考えられるし,島ノ庄の地は,馬子の家の描写にも,よく適合している。また,近くに,馬子の桃原墓の可能性が大きい石舞台古墳の存在することも,有力な根拠となる。

 1972-74年度,石舞台古墳近傍にある旧高市小学校のすぐ北の水田が,橿原考古学研究所により,発掘調査され,その結果,1辺約42mの方形の池が検出された。出土遺物は少なかったが,7世紀前半より9~10世紀ごろまで存続している。新しく検出された池は,嶋宮の池である可能性が大きいが,中島は検出されず,問題を残している。また,周辺からは,建物遺構が見つかっていない。嶋宮の比定にも,若干,他の見方が可能である。それは,島ノ庄とその西方一帯(飛鳥川を隔てた橘寺の東一帯)をも含めて,嶋宮を考えるものである。その根拠として,舎人らの挽歌のなかに,〈東の滝の御門〉〈東の大き御門〉と歌われ,嶋宮の東門が,飛鳥川に面しているかのごとき表現になっていること,また,〈橘の嶋宮〉の表現や,《諸寺縁起集》(護国寺本)の橘寺の項に,〈嶋宮御田拾壱町〉がみえており,嶋宮と橘寺の関係がうかがえるからである。飛鳥川を挟んで,その東西に,嶋宮の建物と庭園があったと想定するのも一案であろう。
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