川内市(読み)センダイシ

デジタル大辞泉 「川内市」の意味・読み・例文・類語

せんだい‐し【川内市】

川内

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「川内市」の解説

川内市
せんだいし

面積:二六五・四二平方キロ

県西部に位置し、西は東シナ海に面する。北は阿久根市、東は薩摩郡東郷とうごう町・樋脇ひわき町、南は串木野市。川内川がほぼ中央部を東から流れ、樋脇川を合せて南流したのち向きを転じて西流し、隈之城くまのじよう川・高城たき川など合せ東シナ海に出る。河口部は川内港となっている。市域の大部分は同川の造った川内盆地にあり、北部は西に延びる紫尾しび山地(出水山地)で限られ、南部には東岳(四八六メートル)かんむり(五一六・四メートル)平原ひらはら(五〇五・九メートル)などが並ぶ。中央部を南から北上した国道三号とJR鹿児島本線は、川内川北岸では北西に向かい、網津おうづ町北部で海岸沿いに出たのち海沿いに北上している。鹿児島本線には南から木場茶屋こばんちやや・隈之城・川内・上川内・草道くさみち・薩摩高城・西方にしかたの七駅がある。

せんだい」という地名は建長八年(一二五六)四月の新田宮所司神官等解文(神代三陵志)に「可愛陵高城千台宮」とあるのが早い時期の史料で、中世後期には川内と記す事例が現れる。千代・仙台と記されるが、瑞祥地名であろう。享保五年(一七二〇)川内川の表記が元禄国絵図では「川内」、幕府巡見使への答書に「千台」であることが問題となり、藩命で川内に表記が統一された(島津国史)

〔原始・古代〕

川内川流域に広がる平野は薩摩半島最大の平野で、奈良時代以降薩摩半島の中心となる地であった。旧石器時代の遺跡は平野周辺台地に点在し、柳葉形ポイントが出土した楠元くすもと町の馬立うまたて遺跡、ナイフ形石器文化と細石器文化の両時期にまたがる長期にわたる文化のある中福良なかふくら町の成岡なりおか遺跡・西にしひら遺跡などがある。成岡遺跡の細石器文化は集中個所が三ヵ所にあり、その広がりとともに内容が注目される。縄文時代の遺跡も各地にみられる。早期のものは成岡・西ノ平などの遺跡で出ている。国分寺こくぶんじ町の薩摩国分寺跡では前期の轟式土器を伴う貝塚が発見されている。後期になると遺跡数は増し、陽成ようぜい町の麦之浦むぎのうら貝塚と隈之城町の尾賀台おがだい遺跡では貝塚が造られる。麦之浦貝塚シジミを主体とした貝塚で、貝輪やクジラの歯製装飾品など当時の生活を想定させる豊富な出土品が見られる。晩期には成岡遺跡・西ノ平遺跡などで安定した集落が造られ、成岡遺跡では土坑も発見されている。弥生時代になると低地にある微高地に集落がつくられ、稲作農耕が開始されたようで、久留巣くるす台地では古い形の石包丁が出土している。中期には同台地などで集落が形成され、後期の五代ごだい外川江そとがわえ遺跡では北九州の影響を受けた文化がみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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