川内村(読み)カワウチムラ

デジタル大辞泉 「川内村」の意味・読み・例文・類語

かわうち‐むら〔かはうち‐〕【川内村】

川内

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日本歴史地名大系 「川内村」の解説

川内村
かわうちむら

[現在地名]川内町川内

川内川の河口に位置し、陸奥湾に面する。北に袴腰はかまごし(六二一・七メートル)朝比奈あさひな(八七四メートル)於法おほう(五三三・四メートル)の諸山をいただき、東は田野沢たのさわ村、西は檜川ひのきがわ村と接する。陸奥湾沿いならびに川内川流域に支村が散在する。川内川の中流右岸、愛宕あたご山の近くに倉越くらこし館跡があり、一四―一五世紀の青磁・白磁の破片が採集されている。康正年間(一四五五―五七)の蠣崎の乱の頃は「内檜川」と称したといい(東北太平記)、明治初年の「新撰陸奥国誌」に「当処は元檜川と云て八丁斗隔てて石倉沢の辺に在しか、寛文十三年今の処に遷る」とある。

正保四年(一六四七)の南部領内総絵図に川内村二九石余とみえ、同年の郷村帳によれば二九・九四六石のうち二〇・八〇七石が畑であった。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には高四一六石余、うち戸沢とざわ村一三・七石余、田野沢村二九・四石余、畑二二五石余、給地四三石余とある。戸口は二四二軒・二千二五三人を数え、人口は当時の田名部たなぶ通では最高である。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では田野沢・戸沢両村は独立村とされ、当村の家数は三四三。このうち本村はしん町五三、なか町四六、かん町三五、谷地やち町二三、中崎なかさき町三五、はま町二二、六町合せて二一四軒、支村は葛沢くずさわ六、上小倉平かみこぐらたい三四、銀杏木ぎんなんぼく五五、牧ヶ畑まきがはた九、湯野川ゆのかわ四、石倉沢いしくらざわ四、下小倉平一五、山越やまごえ二であった。

川内湊を擁し、港町として早くから栄えた。寛文七年(一六六七)難船救助など、天和二年(一六八二)切支丹禁制、貞享五年(一六八八)捨馬禁止の高札が立てられている(御領分高札集)。天和元年には酒屋が二軒あり(雑書)、享保二年(一七一七)には八軒となった(宇曾利百話)。安永六年(一七七七)町と称することを許され、宿老・検断が置かれている(雑書)。享和元年には田名部神社(現むつ市)に川内町と書いた大灯籠がつるされたという(原始謾筆風土年表)。享和の仮名付帳に六町が記されているが、藩政期末の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図でみると、海浜沿いの往還筋の東に新町、中ほどに中町があり、中町の北に谷地町、中町・谷地町の西に神町、その西隣に八幡はちまん町がある。

川内村
かわうちむら

[現在地名]大郷町川内

大谷おおや郷の南端に位置する。南部と北部を各々に東北流する沢川が開析谷をともなって、味明みやけ村で合流して味明みあけ川となる。三方が峰で囲まれ、東北境にわずかに耕地がひらける山村。高城たかぎ(現宮城郡松島町)から大松沢おおまつざわ村、吉岡よしおか(現大和町)に通ずる脇街道が東北境を味明村に通じる。北は味明村・なか村、東は宮城郡初原はつばら村・桜渡戸さくらわたしど(現松島町)、南は同郡赤沼あかぬま村・春日かすが(現利府町)、西は成田なりた村。集落は東南部に安戸やすど・東北部に田布施たぶせ・北部に新関にいぜき・西部に小屋館こやだての四地域に散在する。

「余目記録」によると、南北朝末期には大崎直兼の知行下にあったと思われるが、大崎氏領は応永年中(一三九四―一四二八)に吉良氏から留守氏領に移ったという記事があり、このうちに当地も含まれていたものと推定される。

川内村
かわうちむら

[現在地名]川崎町川内

前川まえかわ村の北にあり、中央を名取川水系の太郎たろう川が東流、南辺をきた川が南東から北東へと曲流し、両川は東端で合流する。南西は今宿いましゆく村、北は名取郡馬場ばば(現秋保町)など。東・西・北の三面に山が連なり、南東方向にしたがい低くなる。一六世紀前半のものと思われる小野・砂金の日記(留守文書)に、「川内、九千五百かり、はたけ、六十七貫地」とみえる。天文一三年(一五四四)八月一七日の留守景宗証状(下飯坂文書)に、「ほんかうかハち役所之事、并せき所之事、可指置候」とみえ、砂金本郷いさごほんごうなどとともに砂金摂津守(常久)に与えられている。

川内村
かわうちむら

[現在地名]川井村川内

鈴久名すずくな村の北西に位置。北方の釜津田かまつだ(現岩泉町)との境には青松葉あおまつば山・サクドガ森などの高山が峰を連ねる。閉伊川が南部を蛇行しながら東流、青松葉山を源とする達曾部たつそべ沢が深い谷をつくって南流し、村のほぼ中央で閉伊川に合する。閉伊街道が通る。字柏木かしわぎの八幡神社の北方には川内館跡がある。猪狩右馬之丞が築城したものとも伝えるが、慶長三年(一五九八)門馬新山かどましんざん大権現修復の祝詞(別当文書)にみえる河内玄蕃助の居館と思われる。同五年九月二三日に楢山帯刀佐に宛てた南部利直知行宛行状(盛岡南部文書)に「河内村」とあり、以来当村は楢山氏の知行地となるが、農民たちは険しい山に囲まれ不作が続き伝馬役を勤めることが困難であると訴え、元禄二年(一六八九)には夏屋なつや村とともに蔵入地に編入、それと同時に年貢も免除され無役高となった。

川内村
かわちむら

[現在地名]門川町川内

門川尾末かどがわおずえ村の西に位置する。四面を山に囲まれ、中央を五十鈴いすず川が東流する。川に沿って宇納間うなま(現北郷村)へ至る道が通る。河内村とも記した。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)には河内村とあり、高三四八石余。日向国覚書には同高の河内村が二村記される。万治四年(一六六一)の延岡藩村高内検高覚によると内検高二九八石余。延享四年(一七四七)の延岡藩領郷村高帳では高三四八石余・新田高六五石余(うち改出四六石余)。明治二年(一八六九)の竈数石高人別調帳では高三四八石余・新田高九二石余。

川内村
かわうちむら

面積:一九七・三八平方キロ

双葉郡西部に位置し、東は富岡とみおか町・楢葉ならは町、西は田村郡滝根たきね町・常葉ときわ町、南はいわき市、北は田村郡都路みやこじ村、大熊おおくま町に接する。北から南に阿武隈高地の山々が連なり、村自体も阿武隈高地中にある。村の平均標高は約四五六メートルで、面積の八七・七パーセントが山林、農耕地は三・二パーセントである。耕地は村の中央を貫流する木戸きど川とその支流に沿って開け、その中に大小二四の集落が散在している。基幹産業は農林業で、経営形態は米・葉煙草・畜産・養蚕・高冷地野菜を種々に組合せた複合経営がほとんどである。林業は立地や気象条件に適したシイタケなどの特用林産物の生産の拡大と、適木の計画的造林が行われている。

川内村
かわうちむら

[現在地名]国見町川内

西大枝にしおおえだ村の南、阿武隈川の氾濫原に位置。もと南の粟野あわの(現梁川町)の一部であったが、一七世紀中頃の米沢藩領時代に分離した。東は東大枝村(現同上)、西は二野袋にのふくろ(現同上)。地名は南に阿武隈川、西にたき川、北に牛沢うしざわ川と諸川に囲まれていることによるという(明治一四年「川内村誌」国見町史)。中世から阿武隈川右岸を東根ひがしね郷、左岸を西根郷と称していたが、近世初頭に阿武隈川の流路が変わり左岸となっても、東根郷川内村の名称は変わらなかった。

川内村
かわうちむら

[現在地名]吉井町吉井

吉井村の南、東は矢田やた村、南は多胡たご村・神保じんぼ村と接し、西は大沢おおさわ川を隔ててたか村・長根ながね村と対する。北部を東西に下仁田しもにた(姫街道)が走る。「簑輪軍記」によれば牧野丹蔵英一が城主の「河内」の小城があり、永禄六年(一五六三)二月に武田信玄勢によって落城している。寛永二年(一六二五)「河内村」二〇二石余が倉橋内匠助に与えられた(記録御用所本古文書)。寛文郷帳では田方一六五石七斗余・畑方二四〇石五斗余、幕府領と旗本倉橋領の二給。

川内村
かわちむら

[現在地名]平戸市川内町

中野なかの村の南東に位置する。北の大崎おおさき鼻、南の京崎きようさき鼻がつくる東に開いた入江に臨む。中世より河内あるいは河内浦とみえ、近世初期まで海外交易の主要な湊であった。文永八年(一二七一)一一月二五日の将軍家政所下文案(青方文書)によれば「肥前国平戸・河内・野崎・南黒島・小値賀島」とみえており、峰持が孫の源湛(峰湛)に譲った当地などの地頭職が建長六年(一二五四)三月二七日の譲状などにまかせて安堵されている。

川内村
かわうちむら

[現在地名]国分市川内

下井したい村・上井うわい村の東方山間に位置し、近世には国分郷に属した。集落は検校けんこう川の支流鎮守尾ちんのお川と長谷ながたに川の流域に散在、本村北東方(川原村の東方にあたる)奥地に飛地の本戸ほんど地区がある。元禄一一年(一六九八)の村里改帳には、古く当村は下井村と一村であったが、万治二年(一六五九)同村から分れて一村となったと記されていたという(国分諸古記)

川内村
かわちむら

[現在地名]中里町豊岡とよおか

鳥谷とりや川の両岸に集落があり、南は豊岡村、南東は福浦ふくうら村、西は田茂木たもぎ村に接する。

金木新田一八ヵ村の一つで、元禄年間(一六八八―一七〇四)の開村と推定されるが不詳。金木かなぎ(現金木町)の日蓮宗青蓮山妙乗みようじよう寺は、宝永五年(一七〇八)僧日良が川内村に庵を結び、正徳四年(一七一四)現在地に移転したという(「寺社領分限帳」国立史料館蔵、「重宝錦嚢」受源院蔵)。享保一二年(一七二七)の村位は下で免は五ツ成であった(平山日記)。元文元年(一七三六)の検地帳によれば、田方二八町七反二畝三歩、畑方一町六反八畝二九歩、田畑屋敷合せて三〇町四反一畝二歩、村高一六五・三八八石とある。

川内村
かわちむら

[現在地名]宇和島市川内・山際やまぎわ

来村くのむら川右岸の村で、支流薬師谷やくしだに川の流域をも含む。北は城下町に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)では来村に含まれている。藩内では江戸初期に来村を八浦里に分離し、この時に川内村が生れた。

太閤検地の石高は五六七石七斗、耕地面積の比率は田八五パーセント、畑一五パーセントであったが、寛文検地では石高が三パーセント減少し、田八一パーセント、畑一九パーセントの比率となっている。

川内村
こつちむら

[現在地名]住用村川内かわうち

東中間ひぎやなはま村の北に位置し、川内かわうち川が流れる。地名はコ(川)・チ(畑作地)の意という。川内・豊勝とよがちの二集落からなる。住用すむゆう間切のうち。「大島私考」に住用間切一五ヵ村のうちとして「川内村」とみえ、高一三二石余、うち享保内検後の開地は二石余で、損地があるという。近世末期に栄えた栄家は代々川内こつちに居住した。同家文書によれば、近世末期、川内村は海辺から一里ほども離れ、御物砂糖の掛渡しや積入れなどとくに便利が悪く、そのうえ居船場は海上三里ほどもある波の荒い所にあり、船の出入りや積入れは潮時を見計らってするので、海上の穏やかな時でも遠方へ運送のうえ積入れをしなければならず、百姓らには時間の空費であった。

川内村
こうちむら

[現在地名]砺波市川内

伏木谷ふしきだに村の南東、谷内やち川の最上流部に位置し、うし岳の北麓の東向き斜面に集落がある。かつて集落は谷内川右岸にあったが、天和二年(一六八二)の山崩れ以後左岸に移ったという(栴檀山村史)。元禄一二年(一六九九)の十村東保村次郎左衛門の書上(川合家文書)には元和元年(一六一五)よりできた村とあるが、同五年の家高新帳に村名はみえない。正保郷帳では谷三たにさんヶ村のうちに含まれると推定される。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には河内村とあり、草高二八石・免五ツ八歩、小物成は山役三六匁。

川内村
かわちむら

[現在地名]村松町川内

いかずち(三七七・九メートル)の北麓、早出はいで川と仙見せんみ川が合流する付近に位置する。北は矢津やづ村、南は熊沢くまのさわ村。元和五年(一六一九)の堀主膳宛の堀直寄知行宛行目録(堀家文書)のなかに菅名組「来迎寺村」として高一一六石一斗余とある来迎寺らいこうじが当村にあたる。雷山に雷城跡があり、来迎寺の名は雷城に丸田周防守が天正年間(一五七三―九二)に旧領刈羽郡五十土いかづち(現柏崎市)から転封した当時、近くに来迎寺があったことに由来するといわれる。

川内村
かわちむら

[現在地名]松浦市御厨町みくりやちよう 川内免かわちめん

大崎おおさき村の南西にあり、坂瀬さかせ川・加椎かしい川が流れる。江戸時代は平戸藩領で田平筋に属する。正保国絵図に川内村とみえ、高二〇二石余。明暦二年(一六五六)の畑方帳抜書では御厨屋みくりや村内に川内免とある。元禄一二年(一六九九)の平戸領分郷村帳では御厨屋村枝村として村名がみえ、高二〇二石余。

川内村
かわちむら

[現在地名]八尾町吉友よしとも

吉友村の南、仁歩にんぶ谷最南端にある。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では大玉生おおだもう村の一〇町ほど南にある枝村新田としてみえ、高二一石余、人家はなかった。天保一三年(一八四二)地味が悪いため滝谷たきたに村などとともに村仕法米扱いとされた(「御用諸事留帳」岡崎家文書)

川内村
かわうちむら

[現在地名]川本町川内

馬野原まのはら村の北東、祖式そじき川上流域の山間に立地。近世まで君谷きみだに(現邑智町)に含まれたと考えられる。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によれば田方一〇八石余・畑方四七石余、年貢高は米七七石余・銀三七六匁余、小物成は藪役六匁余、家数は本家三四・門屋二六、人数二三三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川内村」の意味・わかりやすい解説

川内〔村〕
かわうち

福島県東部,阿武隈高地の東斜面にある村。広大な村有林があり,林業と農業が盛ん。平伏 (へぶす) 沼のモリアオガエル繁殖地 (天然記念物) ,同村出身の草野心平が寄贈した文献を中心とした天山文庫大滝根山などが知られる。国道 399号線が通る。面積 197.35km2。人口 2044(2020)。

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