川南町(読み)かわみなみちよう

日本歴史地名大系 「川南町」の解説

川南町
かわみなみちよう

面積:九〇・二六平方キロ

児湯郡のほぼ中央部北寄りに位置し、北は都農つの町、西は木城きじよう町、南は高鍋たかなべ町、東は日向灘に面する。西部には山地が迫り、山麓から日向灘付近までの大半を標高五〇―一〇〇メートルの洪積台地が占める。都農町との境を名貫なぬき川が、町のほぼ中央部を平田へだ川が東流し、日向灘に注ぐ。南部には小丸おまる川の支流切原きりばる川がほぼ当町と木城町・高鍋町との境を流れる。日向灘沿いを南北にJR日豊本線が通り、川南駅がある。日豊本線の西側をほぼ並行して県道高鍋―美々津みみつ線が通り、その西側を国道一〇号が通る。また山麓付近を南北に主要地方道都農―あや線が通り、北部で県道尾鈴おすず―川南停車場線と交差する。

白鬚しらひげ番野地ばんのじ椎原しいばるなどではナイフ形石器・尖頭器などの旧石器時代の遺物が出土している。平成五年(一九九三)から発掘調査が行われている平田の後牟田うしろむた遺跡では旧石器時代から縄文時代早期にかけて一〇枚の文化層が確認された。縄文時代の遺跡は少なく、あさひおか付近で早期の押型文土器・貝殻条痕文土器が採集されている。弥生時代の遺跡としては東平下ひがしひらした遺跡・なかさこA遺跡・かみはる遺跡・把言田はごんだ遺跡・野稲尾のいねお遺跡などがあり、とくに中期から後期の遺跡が台地上に密集する。中ノ迫A遺跡は昭和五三年(一九七八)に発掘調査が行われ、弥生時代終末から古墳時代初頭頃の竪穴住居跡一軒・土坑一基と土器片などが検出されている。野稲尾遺跡は同六二年に発掘調査が行われ、弥生時代後期初頭の竪穴住居跡二軒・周溝状遺構二基、中世の掘立柱建物跡二軒などが発見された。切原川に沿う国光こつこう原とよばれる台地上には国指定史跡の川南古墳群がある。

川南町
かわみなみまち

[現在地名]金沢市片町かたまち一丁目

北陸街道を挟む両側町で本町。片町の西にあり、西は犀川大橋に続く。慶長(一五九六―一六一五)頃から城郭の南に連なる町をすべて南町とよんでいたが、のち石浦いしうら町・片町が成立すると、犀川に接する地区が川南町と称されるようになった(金沢古蹟志)。文化八年(一八一一)の家数二五、肝煎は幸蔵、組合頭は酒造業を営む宮竹屋喜左衛門(金沢町絵図名帳)。片町と同様武士階級を顧客とする御用町人が集住していた。業種は銭屋兼小間物商・魚商・材木商・麩こんにゃく商・紙商・みの笠兼米仲買・蒸菓子兼合薬商・質兼足袋商・合薬兼道具商・瀬戸物商・みの笠兼蝋燭商・紙合羽商・畳商・小間物兼打綿商・畳表兼みの笠商・足袋商・絞り染兼香具商・酒造業・呉服兼古手商・たばこ商などであった(同帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川南町」の意味・わかりやすい解説

川南〔町〕
かわみなみ

宮崎県中部,宮崎平野北部,日向灘にのぞむ町。 1953年町制。荘園時代は島津荘の一部。土持氏,伊東氏,島津氏の支配を経て,慶長8 (1603) 年以来明治にいたるまで高鍋藩秋月氏の所領。尾鈴山麓に洪積台地が広く分布。小丸川総合開発事業に伴い松尾ダムが完成。国営開拓地の水田と畑地を灌漑して,米,野菜,果樹を産する。養豚,酪農も発達。川南港は小型漁船を主体とした沿岸漁業の中心地。川南古墳群および宗麟原供養塔はともに史跡,川南湿原植物群落は天然記念物に指定。 JR日豊本線,国道 10号線が通る。面積 90.12km2。人口 1万5194(2020)。

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