川原寺(読み)カワラデラ

デジタル大辞泉 「川原寺」の意味・読み・例文・類語

かわら‐でら〔かはら‐〕【川原寺】

奈良県高市郡明日香あすか村にある真言宗豊山派の寺。山号は仏陀山。創建は奈良時代以前。斉明天皇川原宮あとに建てられたという。大宝(701~704)ごろに栄えたが、平安時代以降は荒廃した。河原寺。弘福寺ぐふくじ

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改訂新版 世界大百科事典 「川原寺」の意味・わかりやすい解説

川原寺 (かわらでら)

奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派の寺。〈かわはらでら〉とも読み,弘福寺(ぐふくじ)ともいう。天智天皇がその母斉明天皇の川原宮の旧地に創建。673年(天武2)一切経の書写が当寺で行われ,686年(朱鳥1)新羅(しらぎ)の客を饗するため,当寺の伎楽が筑紫へ運ばれている。藤原京の時代は四大寺の一つに数えられたが,平城京遷都に際して,奈良へ移転されず飛鳥にとどまったので,第一級の官寺の地位を失った。832年(天長9)空海が京都と高野山の往復に宿所として当寺を賜ったと伝え,9世紀後半には真言宗の僧が検校となり,しだいに東寺の支配下に入った。1191年(建久2)焼失の後,円照の弟子如蓮房教弁がやや復興したが,17世紀ころにはすっかり荒廃した。
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川原寺は現在白大理石礎石が残っていることで知られた中金堂跡に小さな本堂を残すだけである。1957,58年の奈良国立文化財研究所の発掘で,本堂の南に東の塔とこれに向かい合った西金堂が配され,これを中門から東西につらなる回廊が中金堂に取り付いて東塔,西金堂をかこんでいること,中金堂の北に講堂があり,東西回廊から北にのびた回廊を含みこんだ三面僧房がこれをとりかこんでいることがわかった。中金堂から西にのびた回廊からさらに西に複廊の軒廊がのび北西の食堂(じきどう)に達する。中門の南の南門の東西に築地塀がのびて寺域を郭するが,1973年の調査で塔の東に南門より大きい東門のあること,僧房の北西に数棟の礎石建物があることなどが明らかとなった。74年の橿原考古学研究所の発掘では,西北山腹から多数の塼仏せんぶつ),塑像片等が出土し往時をしのばせたが,1191年の伽藍焼失後に埋められたと考えられる。10世紀に相当規模の普請のおこなわれたことが出土瓦より推定され,1191年の焼失後13世紀半ばころから後半にかけて塔,金堂はもとより食堂,僧房まで再建されたが16世紀に再度雷火により焼失,江戸時代以来今日の姿になった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川原寺」の意味・わかりやすい解説

川原寺
かわらでら

奈良県明日香村川原にあった寺。厳密な建立年次には説が多いが,7世紀後半の創建とみられ,天智天皇が母の斉明天皇の冥福を祈り飛鳥川原宮跡であったこの地に建立したという説がある。また『日本書紀』には天武2(673)年,ここで一切経の書写が行なわれたことが記録されている。四大寺の一つとして重要な位置を占めていたが,奈良時代以降衰退した。以後数次の火災,復興を経ており,遺構として瑪瑙礎石が残る。1957,1958年に発掘調査が行なわれた結果,中金堂(→金堂)の南側に塔(東)と金堂(西)を配置し,それらを中門から東西に延び中金堂で閉じる回廊が囲み,中金堂の背後に講堂とコの字形僧坊を置く,川原寺式ともいうべき独特な伽藍配置であったことがわかった。あわせて古瓦をはじめ,,古銭,金銅製品,土師器須恵器などが発見された。川原寺跡として国の史跡に指定されている。現在は中金堂跡に真言宗の寺,弘福寺(ぐふくじ)がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「川原寺」の意味・わかりやすい解説

川原寺
かわらでら

奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村にある寺。真言宗豊山(ぶざん)派に属し、仏陀(ぶっだ)山と号し、弘福(ぐふく)寺ともいわれる。開創は斉明(さいめい)天皇が655年(斉明天皇1)勅をもって始めたと伝えられる。天武(てんむ)天皇の代には、勅願寺として発展し、五大寺の一つとなり、さらに天平(てんぴょう)時代(729~749)には十大寺の一つとして大いに栄えた。平安時代になり空海が高野山(こうやさん)開創のため、京都の東寺と高野山との往復のみぎりに、真言道場に改めた。その後、建久(けんきゅう)年間(1190~99)に諸堂宇が焼失し、漸次荒廃した。いまは大悲堂、大師堂などの建物のみであるが、創建当時の瑪瑙(めのう)(大理石)の礎石があり、往年の大寺院をしのぶことができる。

[眞柴弘宗]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「川原寺」の解説

川原寺
かわらでら

「かわはらでら」とも。河原寺・弘福(ぐふく)寺とも。奈良県明日香村にある真言宗豊山派の寺。大官大寺・薬師寺・飛鳥寺とともに藤原京四大寺の一つ。斉明天皇の川原宮の地に天智天皇の勅願で建立されたと考えられる。673年(天武2)には当寺で一切経書写が行われた。794年(延暦13)の「弘福寺文書目録」によれば,畿内をはじめ美濃・播磨・紀伊・讃岐などの諸国に多くの寺領をもっていた。平安時代には空海が住したと伝え,東寺末寺となった。鎌倉時代に東大寺の教弁(きょうべん)が僧房などを建立したが,室町時代以降しだいに荒廃。近年の調査で,むかいあった塔と西金堂の北に中金堂・講堂が並ぶ大規模な伽藍配置が確認された。近隣の地から多数の塼仏(せんぶつ)も出土した。寺跡は国史跡。

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百科事典マイペディア 「川原寺」の意味・わかりやすい解説

川原寺【かわらでら】

〈かわはら〉ともよみ,法号は弘福寺(ぐぶくじ)。奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村にある真言宗豊山派の寺。本尊十一面観音。天智天皇のころ斉明天皇の川原宮の地に創建したと伝える。藤原京時代は四大寺の一つ。12世紀と16世紀に焼失し,現在本堂が残る。1957年,1958年の発掘調査により,昔の整然たる大規模な伽藍(がらん)配置が明らかになり,白鳳時代の官の大寺としての偉容がしのばれる。
→関連項目写経長谷寺

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世界大百科事典(旧版)内の川原寺の言及

【川原寺】より

…1191年(建久2)焼失の後,円照の弟子如蓮房教弁がやや復興したが,17世紀ころにはすっかり荒廃した。【中井 真孝】
[遺構]
 川原寺は現在白大理石の礎石が残っていることで知られた中金堂跡に小さな本堂を残すだけである。1957,58年の奈良国立文化財研究所の発掘で,本堂の南に東の塔とこれに向かい合った西金堂が配され,これを中門から東西につらなる回廊が中金堂に取り付いて東塔,西金堂をかこんでいること,中金堂の北に講堂があり,東西回廊から北にのびた回廊を含みこんだ三面僧房がこれをとりかこんでいることがわかった。…

【寺院建築】より


[白鳳から奈良へ]
 白鳳時代には奥羽南半から九州中部まで数百の寺が建立され,政府の官寺も定められた。天智天皇発願の川原寺(かわらでら)は中金堂の前庭に東塔と西金堂を置き,背後に講堂と三面僧房があった。中金堂は母屋(もや)のみ壁と扉で囲む聖域とし,四周は吹放しだったらしい。…

【鎮壇具】より

…このまつりは仏教だけで行われたのではなく,神祇,陰陽道,道教によっても行われたが,発見される鎮壇具の多くは,仏教による供養に際して埋められたものである。発掘調査で出土した最古の例は飛鳥の川原寺塔跡出土品である。ここでは掘込地形(じぎよう)によって基壇を築く過程で,無文銀銭や金銅円板などを埋納している。…

【奈良時代美術】より

…この時代のものとして丙寅(666)銘のある2体の弥勒菩薩半跏像(法隆寺献納宝物,大阪野中寺)があり,三面頭飾やほのかな肉づけに,旧様をふまえながらも北斉・北周の様式からの新様がみられる。
[川原寺創建]
 川原(かわら)寺は1957年の発掘によって近江遷都以前の創建とみなされ,中金堂の前庭に塔と金堂が向かい合う伽藍配置,従来の高麗(こま)尺に対して唐尺の採用が明らかにされた。 礎石は花コウ岩と大理石(金堂のみ)を用い,鐙(あぶみ)瓦も素弁,単弁から初めて複弁蓮華の出現をみる。…

※「川原寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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