川手城(読み)かわてじょう

日本の城がわかる事典 「川手城」の解説

かわてじょう【川手城】

岐阜県岐阜市にあった平城(ひらじろ)。同市の市街地から南東方向の郊外にあった。美濃土岐氏第3代の守護職・土岐頼康が1353年(文和2)に築城し、長森城(岐阜市)から居城を移し、第11代の土岐頼芸まで土岐氏の本城とした城である。頼康は足利尊氏の命により信濃伊予を平定したことから、美濃・尾張・伊勢の3ヵ国の守護職に補せられた。それまで居城としていた長森城が手狭になったために、長森城から南へ約8kmの旧木曽川(現境川)と荒田川にはさまれた土地に川手城を築城したといわれている。川手城と「城」の名をつけられているが平時の居館で、御殿風の本殿があり、広大な敷地には七堂伽藍を持つ霊薬山正法寺や源氏が守護神としていた八幡神社をはじめとする多くの神社仏閣を配していた。川手城には、応仁の乱で荒廃した京の都から土岐氏を頼って逃れた多くの公家たちが住み着き、都の文化が花開き、賑やかな城下町を形成した。当時は西の山口(大内氏の拠点)に対して、東の川手といわれた。しかし1494 年(明応2)に、土岐氏の相続争いに端を発した船田の乱が起こり、川手城は焼失した。華やかな都の文化が花開いた城と城下は3日3晩燃え続け、灰塵に帰したといわれている。その後、城と城下町は再建されている。この川手城を居城としていた守護・土岐政頼は1532年(天文1)、鷺山城(福光館)の土岐頼芸(政頼の弟)に攻められて越前へ逃亡し、土岐頼芸が守護の座に就き、居城を川手城に移した。ただし、頼芸は同年中に枝広館(岐阜市)に居城を移した。その後、枝広館は長良川の水害を受けたため、頼芸は大桑城(岐阜市)に居城を移す。1542年(天文11)、大桑城の土岐頼芸を攻めて頼芸を尾張に追放し、事実上の美濃国主となった守護代・斎藤利政(斎藤道三)は、居城の稲葉山城(のちの岐阜城、岐阜市)を統治の拠点としたことから、川手城は廃城となった。城は破却されたものの、道三は川手の町を保護したため、美濃国では有数の賑わいを続けた。しかし、織田信長が稲葉山城を攻略し、岐阜城と名前を改め、城下町を整備する中で川手の町は岐阜に移転し衰退していった。川手城が破却された後も、土塁などの遺構はそのまま残ったが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康の命令で加納城(岐阜市)の築城が始まると、川手城跡の土塁の土などがその築城に使われたことから、その遺構のほとんどが失われてしまった。ちなみに、川手城があった場所は、加納城跡から南東に徒歩約10分に位置している。川手城は現在の私立済美高等学校の敷地にあったと推定されており、当時の土塁の一部が残っている。また、同校内には川手城址の石碑が建っている。JR東海道本線岐阜駅からバスまたは徒歩。◇革手城とも記される。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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