朝日日本歴史人物事典 「市川団十郎(2代)」の解説
市川団十郎(2代)
生年:元禄1.10.11(1688.11.3)
享保から宝暦前期にかけて江戸劇壇で活躍した歌舞伎役者。立役の名優。俳名は三升,栢莚。初代団十郎の長男として江戸で生まれた。初名九蔵。元禄17(1704)年2月,父の不慮の死に会い,その年に17歳で2代目団十郎を襲名した。父親似の容貌体格を備え,小柄だったが持ち前の芸熱心でめきめきと腕をあげ,江戸劇壇における「市川団十郎」の名跡の権威を確立した。初代団十郎の豪快な芸風を受け継ぎ,「暫」「鳴神」「外郎売」「矢の根」などの荒事芸を得意にしたばかりでなく,初代が不得手とした濡れ事芸,和事芸にも天分があった。上方で大当たりをとった近松門左衛門作の人形浄瑠璃「曾根崎心中」の徳兵衛,「心中天網島」の治兵衛などを歌舞伎化して江戸で上演して好評を博したのも,その面の才能を物語る。「国性爺合戦」の和藤内を享保2(1717)年に上演したのは,江戸における義太夫狂言上演に先鞭をつけたものと目される。このように上方生まれの狂言の江戸での上演に成功したことは,上方文化の東漸という文化史上の現象を象徴的に示すものであるが,これについて2代目団十郎の資質が有効に働いたことを逸することはできない。 享保6年正月森田座の「賑末広曾我」で曾我五郎の役を勤めたが,この狂言が大当たりをとって280日間のロングランを記録した。その褒賞として以後彼の給金は千両となり,併せて毎年6月に土用休みの特権を与えられたと伝える。これがいわゆる「千両役者」の称の始まりである。彼は「助六」を初演し,以後3度にわたる上演のたびに和事味を加えて演出を洗練し,今日も見られる黒羽二重の小袖に紅絹の裏,友禅染めの五つ紋,鮫鞘,ひとつ印籠,紫縮緬の鉢巻きという扮装を完成させた。寛保1(1741)年には大坂に上り,「毛抜」を初演,上方でも高い評価を得た。享保20年,養子の市川升五郎に3代目団十郎を襲名させ,自身は市川海老蔵と名乗る。不幸にも3代目に先立たれるが,自身は「江戸随市川」の海老蔵として長く江戸歌舞伎界に君臨した。俳諧,狂歌をたしなんで,広く文人と交わり,『父の恩』『栢莚狂句集』,日記『老のたのしみ』などの著述を残した。<参考文献>立教大学歌舞伎研究会編『資料集成・二世市川団十郎』
(服部幸雄)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報