常楽寺(読み)じょうらくじ

精選版 日本国語大辞典 「常楽寺」の意味・読み・例文・類語

じょうらく‐じ ジャウラク‥【常楽寺】

[一] 長野県上田市別所温泉にある天台宗の別格本山。山号は金剛山。天長三年(八二六)円仁が創建。弘長二年(一二六二)建立の石造多宝塔は国重要文化財。北向観音。
[二] 滋賀県湖南市にある天台宗の寺。山号は阿星山。和銅年間(七〇八‐七一五)良弁(ろうべん)の開基と伝えられる。延文年間(一三五六‐六一)観慶が再興。室町初期に建立された本堂・三重塔は国宝。同町の長寿寺を東寺とよぶのに対して、西寺(にしでら)という。西寺の観音。

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デジタル大辞泉 「常楽寺」の意味・読み・例文・類語

じょうらく‐じ〔ジヤウラク‐〕【常楽寺】

長野県上田市にある天台宗の寺。山号は金剛山。開創は天長2年(825)、開山は円仁えんにんと伝える。北向観音は古来、厄除けの観音として有名。
滋賀県湖南市にある天台宗の寺。山号は阿星あせい山。開創は和銅年間(708~715)、開山は良弁ろうべん。当初は法相宗。本堂・三重塔は国宝。西寺。

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日本歴史地名大系 「常楽寺」の解説

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]下京区学林町

江戸時代の西本願寺寺内町のうち、六条寺内町の東中筋と花屋町はなやちよう通の交差する南東に位置する。浄土真宗本願寺派、本尊阿弥陀如来

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔創建〕

常楽寺由来(龍谷大学蔵)によれば、本願寺第三代覚如の息男存覚が康永三年(一三四四)京都大宮おおみやに一宇を建立し、のちに東山大谷おおたに(現京都市東山区)北西方の今小路いまこうじ(現同区)に移転、常楽台と号したという。「存覚上人一期記」には同年一二月条に「居住大宮寺」、文和二年(一三五三)条に「六月廿七日柳原前大納言資明逝去、今小路地之事、自孟夏之比問答、大略承諾之後(中略)八月十八日上洛、買得之、於大宮半作堂々沽却之(中略)房并北房等渡之造之」とみえる。同書は出雲路乗専の協力の下に教願が移築奉行となって、かつら(現同市西京区)の門徒の尽力があったとする。真宗寺本「反古裏書」には「善如上人御代ヨリ(中略)二日ニハ当住持又今小路へ入御アリシ事、毎春ノ祝義、蓮如上人ノ御代ニイタルマテ不易ノ御嘉例ト云々」とあり、本願寺門主を正月二日に常楽寺に招請することが習わしとなっていた。龍谷大学本「反古裏書」は、この習わしを本願寺実如の代までとしている。「華の御影」と俗称される寺蔵の親鸞等身(真向)御影は、「真宗故実伝来鈔」では「華降ノ御影」、「法流故実条々秘録」では「夢想之御影」とも称され、康正二年(一四五六)七月上旬空覚によって修復されたときの修復裏書写(寺蔵)によれば、存覚が画工康楽寺浄耀に文和三年一〇月二八日に命じ、翌閏一〇月二〇日に完成、同月二五日存覚自身が賛銘を書いたとする。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]鎌倉市大船五丁目

大船おおふなの中央、粟船あわふね山の南側にある。臨済宗建長寺派。山号粟船山。開山退耕行勇、開基北条泰時と伝える。本尊阿弥陀三尊。

「吾妻鏡」嘉禎三年(一二三七)一二月一三日条に北条泰時は夫人の母供養のため「於彼山内墳墓之傍、被一梵宇」とあり、開堂供養は退耕行勇が勤めている。この時創建されたのが常楽寺と思われ、粟船御堂とよばれていた。仁治元年(一二四〇)一〇月に泰時はやまうち道を開いているが(吾妻鏡)、当寺参詣と関係があるかもしれない。寛元元年(一二四三)六月一五日に泰時の年忌供養も当寺で修せられ、泰時と当寺のつながりをうかがわせるが、この年忌供養は曼荼羅供・真言供養とあり(同書)、創建当初は密教色の強い寺であったと思われる。なお「粟船山常楽寺略記」は北条政子が娘大姫・婿木曾義高の菩提を弔うため当寺を創建したという異説を伝える。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]石部町西寺

阿星あぼし山の北麓にある天台宗の古刹。東方の長寿ちようじゆ寺と同じく阿星山と号し、ひがし寺とよばれる長寿寺に対し、西寺と称される。本尊千手観音。開基は寺伝によると良弁とも、和銅年間(七〇八―七一五)金蕭菩薩の霊跡で元明天皇の草創とも伝える。仁平年中(一一五一―五四)行胤が再興したという。中世には常楽院ともよばれ、近世には西寺と通称された。天保(一八三〇―四四)頃には近江三十三所観音札所の第一番とされ、観音霊場として知られた。正和二年(一三一三)当寺の僧大輔阿闍梨・常陸阿闍梨以下が、善水ぜんすい(現滋賀県甲西町)配下の散所法師宅に打入り、放火するなど狼藉を働いている(同年九月一六日「青地冬綱書状案」寺蔵文書)

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]豊中市刀根山元町

刀根山とねやまの景勝の地にあり、刀根山御坊とよばれる。浄土真宗本願寺派、本尊阿弥陀如来。寺伝によると、本願寺覚如の長男存覚が貞治二年(一三六三)摂津国を遊化の際、一宇を豊島てしま北轟木きたとどろき(現池田市)に創建、豊島山常楽寺と号したのに始まる。当地への移転は長禄三年(一四五九)というが、刀根山城の廃跡に建立されたと思われ、江戸時代初期に移転してきたと推定される(大阪府史蹟名勝天然記念物)。江戸初期には西本願寺派の有力寺院で、寛永一八年(一六四一)一月には西本願寺から使僧を迎え、摂津十三日講の最初の大寄講が当寺で行われている(箕面市史)

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]徳島市国府町延命

国府町延命こくふちようえんめい地区西方にある。盛寿山と号し、高野山真言宗。本尊は弥勒菩薩。四国霊場八十八ヵ所の第一四番札所。第一三番札所大日だいにち寺から鮎喰あくい川を左岸に渡った丘陵にあって、ここから鮎喰川下流部一帯が眺望できる。御詠歌は「常楽のきしにはいつかいたらまじぐぜひの舟にのりおくれずは」。寺伝によると弘仁六年(八一五)に空海がこの地で一七日の間修禅していたとき、弥勒菩薩が多くの菩薩を率いて現れ空海に説法した。これにより空海は弥勒菩薩の像を刻んで本尊とし、堂宇を建てたのが当寺だとする。当寺は延命院を号していることから、久安二年(一一四六)七月一一日の河人成俊等問注申詞記(愚昧記仁安二年冬巻裏文書)にみえる京都法勝ほつしよう(現京都市左京区)末寺延命院が前身とも考えられている。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]岡山市草ヶ部

くさ北方の大廻おおめぐり(築地山)南東面中腹にあり天台宗、築地山と号し、本尊千手観音。報恩大師草創の備前四八ヵ寺の一つと伝える。盛時には築地山一帯に二〇余の塔頭を数えたと伝えるが、江戸時代・明治時代と二度にわたり大火に遭い、仁王門を残して焼失した。天正一〇年(一五八二)三月には豊臣秀吉が禁制(黄薇古簡集)を与えている。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]有田市箕島

箕島みのしま集落の中央部にある。仏徳寺と号し、西山浄土宗。本尊阿弥陀如来。当寺の記録である文政七年(一八二四)の森羅万象録(寺蔵)には元慶年中(八七七―八八五)の創建で真言宗であったが、寛正四年(一四六三)浄土宗に改宗したとあり、常什記(寺蔵)の歴代を記す条に、七世一空政順のとき「是迄者、雖当郡藤並禅長之末寺、依子細而成惣持寺之直末寺」とみえる。また森羅万象録の文化七年(一八一〇)六月の書上に「当寺之儀者往古宮崎城主出雲守殿菩提所ニ而自身之守本尊立像御長ケ三尺之木像正観音菩薩雲慶之作并石塔一基納リ御座候」とあり、さらに天正一三年(一五八五)三月に宮崎出雲守が自身の逆修日牌料として中田一町三反六歩を永代寄付したのち、同一六年二月一六日に没したので、その田地の収穫料で毎年正月一六日の法事を営んだとある。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]上田市大字別所温泉

天台宗。金剛山照明院常楽寺という。本尊妙観察知如来。常楽・長楽ちようらく安楽あんらくのいわゆる「三楽寺」があったと伝えるが、今は常楽寺と安楽寺が残る。

寺伝によると草創は天長三年(八二六)慈覚大師。寺には塩田国時の木像と称するものがある。この地方は台密教学の中心地として学ぶものが多く、鎌倉前期には「信州の学海」と称され(大明和尚無関大和尚塔銘)、当寺もその学海の中心であったろうと想定され、安楽寺の開山樵谷惟仙もこの寺で修行したことがある(文禄三年安楽寺塔銘)

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]半田市東郷町

天竜山と号し、西山浄土宗。本尊阿弥陀如来。「府志」は「属部田祐福寺、文明十六年甲辰空観栄覚上人開基、而知多西山派本寺也、古有寺産百石豊臣秀吉没収之」と記している。当寺の由緒によると、中興の祖といわれる第八世典空顕朗(慶長九年没)は家康の従兄弟であったこともあり、永禄三年(一五六〇)の桶狭間合戦時、天正一〇年(一五八二)の本能寺の変の際、難を逃れて来寺、さらに同一七年上洛の途次と都合三度家康が訪れている。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]婦中町千里

呉羽山くれはやま丘陵山懐の字源蔵谷げんぞうだににあり、御幸山と号し、高野山真言宗。本尊十一面観音。文武天皇の勅願寺といい、大宝二年(七〇二)創建で、本尊は行基作と伝える。かつては大伽藍で、観音安置の本堂、弘法大師筆の五大明王絵像安置の護摩堂など総坊は一千に及んだとする。仁寿二年(八五二)に慈覚大師円仁が自ら千仏を刻んで安置したという。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]加古川市加古川町大野

日岡ひおか山の南麓にある。宝生山と号し、高野山真言宗。本尊薬師如来。寺伝によると法道の開基で正嘉二年(一二五八)大破、のち小野文観が復興したという。明徳二年(一三九一)九月二八日の西大寺末寺帳(極楽寺文書)と永享八年(一四三六)の西大寺坊坊寄宿諸末寺帳(西大寺文書)北条ほうじようと肩書された常楽寺がみえ、当寺のことと思われる。衆徒一八ヵ寺・座坊五六といわれ、別所長治の祈願寺となっていたが、天正六年(一五七八)羽柴秀吉により放火された。慶長六年(一六〇一)池田輝政より寺領五石を寄進され(「大野村寺社領証文写」荒木本家文書)、その後現宗派となり、野添のぞえ(現播磨町)高禅こうぜん寺末となった。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]青山町種生

種生たなお神社の東、松屋敷まつやしきにある。山号利生山。真言宗豊山派。本尊釈迦如来坐像。寺伝では文明八年(一四七六)創建といい、住職過去帳の初出は長享二年(一四八八)で「常楽寺住持印通坊」とある。種生神社の別当寺で、同社の永正二年(一五〇五)の棟札に「同知事泉通坊」とある。寺蔵に大般若経付唐櫃(国指定重要文化財)がある。大般若経は全六〇〇巻のうち五巻を欠く五九五巻があり、奈良・平安・鎌倉・江戸の各時代にわたって書写されたもので、奈良時代のものが約五〇巻あり、巻九一に「天平宝字二年歳次戊戌十一月 奉為伊勢大神 願主沙弥道行 書写優婆塞円智」の奥書をもつ。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]加古川市上荘町井ノ口

くち集落の北東部に位置する。日光山と号し、高野山真言宗。本尊薬師如来。日光寺とも称した。大化年中(六四五―六五〇)に法道が創建したと伝える。嘉承二年(一一〇七)に堀河天皇追福のために行われた法華会は後世まで続いている。嘉元四年(一三〇六)寺域内に殺生禁断の勅を与えられた(播磨鑑)。「峯相記」にも法道が建立した寺院のうちに日光寺がみえる。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]館林市木戸町

木戸きど町の西端、矢場やば川と多々良たたら(旧江川)の合流点東側に位置する。光明山と号し、真言宗豊山派。本尊は不動明王。弘安三年(一二八〇)七月宥尊の開基と伝えられ、かつては小俣鶏足おまたけいそく(現栃木県足利市)末という(多々良村郷土誌)。境内にある享保一一年(一七二六)造立の丸彫地蔵坐像(総高三・一三メートル)は俗にやきもち地蔵といわれ、同村内にある深蹄じんたい寺の日限り女地蔵と恋をし毎夜深蹄寺まででかけていったので、俗人たちは地蔵の周囲に柵を作り邪魔したという。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]美保関町七類 向浜

七類しちるい港の南にある。金宝山と号し、曹洞宗。本尊十一面観音。「雲陽誌」には本尊釈迦如来とある。片江かたえ浦の曹洞宗長寿ちようじゆ寺の末寺であった。天明年間(一七八一―八九)に現在地に移されたといい(七類年代史)、それまでは七類浦の中央にあったと伝えられる(片江郷土誌)。境内に大日堂があり、本尊大日如来、脇立は不動・毘沙門を安置。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]中野市大字中野

奇岩の景勝に富む字我帰山がきざんの山懐にあって、もとは臨済宗天南てんなん寺があったという。おそらく戦乱により領主高梨氏の中野退去後荒廃したものであろう。天正一〇年(一五八二)織田氏が滅びて上杉景勝領となるや、同一一年一一月七日、円慶えんけい寺にあてた「任望之旨、常楽寺・安源寺進置之候、修造勤行不可有怠慢者也、仍如件」の上杉景勝寄進状及び「常楽寺・安源寺両寺共、郡司可為不入者也、仍如件」の上杉景勝朱印状(ともに常楽寺文書)がある。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]益城町小池

飯田いいだ山山頂近くの景勝の地にあり、飯田山大聖院と号し、天台宗、本尊千手観音。寛永四年(一六二七)五月の常楽寺勧進状(妙永寺文書)や「一統志」は敏達天皇一二年百済国の日羅の開基とし、「国誌」は聖徳太子の建立とするが、開山は俊律師の師真俊と推測されるので、草創は平安時代末期と思われる。草創期から鎌倉時代にかけては、数百人の学僧が修行していたという。「覚兼日記」天正一三年(一五八五)九月一日条によれば、島津義弘は常楽寺へ預けおいていた肥後の地下衆興呂木兄弟および蔵岡父子を成敗し、同二七日には覚兼は当寺を訪れ、「拙者も御酒進之候」とあり、戦国時代末期にも相当な寺格を有していた。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]津島市天王通り

延享五年(一七四八)の村絵図には津島村の中央やや東にあたる地小沼おずまの地にあり境内の北側は西方さいほう寺に接する。現在は繁華街天王てんのう通りに直接面している。補陀山と号し、曹洞宗。本尊は如意輪観音坐像。

応永六年(一三九九)総持そうじ(現横浜市)開山瑩山紹瑾の第四伝目太初継覚の開基(府志)

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]唐津市半田字中組

背振せふり山地の作礼さくれい山山塊の一つ三方さんほう山山麓の半田はだ川左岸、半田集落のほぼ中央にある。仏徳山と号し、曹洞宗。半田村内にあった松楽しようらく寺と吉祥きつしよう寺が合併した寺で、本尊は薬師如来と阿弥陀如来。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]大江町字尾藤

尾藤びとう谷を東へ約五〇〇メートル入った所、谷の北側山麓にある。青陽山と号し、曹洞宗、本尊薬師如来。

天慶年間(九三八―九四七)に薬師如来の大仏を安置したのに始まると伝える。北有路きたありじ光明こうみよう寺末であった(旧語集)

寺伝によると、かつて荒熊という賊が薬師如来胎内の宝物を盗み出したが、俵藤太ともみ合い如来とともにあか池に沈んだ。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]三国町加戸

加戸かどの西部にあって、加戸西坊とよぶ。法性山と号し、真宗高田派。本尊は阿弥陀如来。寺伝によると、開基の真傾が承元元年(一二〇七)親鸞に帰依し、天台宗から真宗に改宗したという。永正一五年(一五一八)七月二三日の高田専修寺越前国末寺連署法度(一身田専修寺文書)に「常楽寺真願」、また永禄四年(一五六一)一〇月二八日の本流院真孝等誓約状(同文書)に「常楽寺智円」とみえる。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]むつ市大湊上町

大湊上おおみなとかみ町にあり、国道三三八号に沿う。八峰山と号し、真言宗。本尊は不動明王。釈迦山神宮じんぐう寺と号し、田名部たなぶ常楽寺の末寺であったが、明治初年本寺の寺籍を移し、寺号山号ともに現在名に改めた(大湊町誌)。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「神宮寺 田名部常(楽)寺末寺」とある。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]川之江市川滝町領家

瑠璃光山薬師院と称し、高野山真言宗。寛政九年(一七九七)の伊予国宇摩郡領家村明細帳に「真言宗 常楽寺 但境内ニ長四拾間横二拾間之宮林御座候、 三間四面、堂一宇、本尊釈迦如来・薬師如来・弥陀如来、但三尊共ニ座像二尺八九寸斗、(中略)氏宮八幡宮 右ハ常楽寺境内、社人川之江村より雇来申候」とある。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]中川区中郷一丁目

如意山と号し、真言宗智山派。本尊薬師如来。寺伝によれば、開基は奈良時代の泰澄までさかのぼる。山内に六坊があり、寺領も二四町に及んだが、文和年中(一三五二―五六)火災に遭い焼失した。その後慶常が中興し、本堂・二王門・宝珠院・東蔵院・光明院を再建したと伝える。明暦年中(一六五五―五八)再度焼失し衰微したが、寛文六年(一六六六)宝珠院・光明院の住職覚道・日政が再興した。

常楽寺
じようらくじ

[現在地名]稲沢市日下部東町

花嶺山と号し、曹洞宗、もと名古屋含笑がんしよう寺末。本尊観世音菩薩。境内七八七坪。天正一九年(一五九一)の創建、開山は雄山源英。本堂前の小堂にある平安末―鎌倉初期の木造釈迦如来坐像は尾張国分寺仏または織田信長の戦利仏とも伝えられ、県指定文化財。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「常楽寺」の意味・わかりやすい解説

常楽寺
じょうらくじ

滋賀県湖南市にある天台宗の寺。和銅年間 (708~715) ,良弁の創立で,現在の堂塔は火災後の延文5 (1360) 年に再建されたもの。同市にある長寿寺を東寺と呼ぶのに対し,西寺と呼ばれる。本堂は桁行7間の大規模な和様密教本堂の代表例。三重塔は応永7 (1400) 年の建造,純和様の優れたもので,ともに国宝。

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デジタル大辞泉プラス 「常楽寺」の解説

常楽寺〔長野県〕

長野県上田市にある寺院。天台宗別格本山。山号は金剛山。825年開創と伝わる。本尊は妙観察智(みょうかんざっち)弥陀如来。多宝塔は国の重要文化財に指定。観音堂の「北向観音」は古来厄除けで知られ、南向きに建立された善光寺とあわせて参詣するのがよいとされた。

常楽寺〔徳島県〕

徳島県徳島市にある寺院。高野山真言宗。山号は盛寿山、院号は延命院、本尊は弥勒菩薩。815年、空海の創建と伝わる。四国八十八ヶ所霊場第14番札所。

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