常陸太田(読み)ヒタチオオタ

デジタル大辞泉 「常陸太田」の意味・読み・例文・類語

ひたちおおた〔ひたちおほた〕【常陸太田】

茨城県北部の市。中世佐竹氏城下町近世は徳川水戸藩領となり、徳川光圀とくがわみつくに西山荘など旧跡が残る。稲作やブドウ・ナシ栽培が盛ん。平成16年(2004)12月金砂郷かなさごう町、水府村里美村編入。人口5.6万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「常陸太田」の意味・読み・例文・類語

ひたちおおた ひたちおほた【常陸太田】

茨城県中北部の地名平安時代から江戸初期まで、佐竹氏が約四七〇年間支配。江戸時代棚倉街道宿場町、タバコ・ベニバナ・コンニャク・和紙などの集散地として繁栄。現在は疏菜・果樹・花卉(かき)の栽培がさかん。昭和二九年(一九五四市制

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改訂新版 世界大百科事典 「常陸太田」の意味・わかりやすい解説

常陸太田[市] (ひたちおおた)

茨城県北東部の市。2004年12月旧常陸太田市が金砂郷(かなさごう)町,里美(さとみ)村,水府(すいふ)村を編入して成立した。人口5万6250(2010)。

常陸太田市南西部の旧町,旧久慈郡所属。人口1万1336(2000)。1993年町制。久慈川の支流浅川,山田川の流域にあり,南部の低地には水田が広がるが,北部は丘陵地となる。浅川上・中流域は近世以来水府タバコの産地として知られたが,現在,葉タバコの生産はわずかである。南部の水田は1649年(慶安2)の辰ノ口江堰の開通で水利が安定し,県下でも有数の穀倉地帯。1960年代以降人口流出が著しく,過疎地域の指定を受けたが,近年は横ばい状態になっている。町域最北端の西金砂山の山頂付近に1180年(治承4)源頼朝と佐竹秀義が戦った金砂城跡があり,山頂に田楽舞で有名な西金砂神社がある。

常陸太田市北端の旧村。旧久慈郡所属。人口4406(2000)。久慈川の支流,里川上流の山地に位置する。山林が村域の大部分を占め,国有林の割合が高い。林業が盛んで,素材のほか,みがき丸太,シイタケなどを産する。かつては馬産地として知られ,小中(おなか)には家畜市場が立っていたが,第2次大戦後は肉牛肥育,酪農にかわり,600haにのぼる放牧場もつくられている。わずかだが茶の栽培が行われている。1960年代以降,人口減少が続いている。

常陸太田市北西部の旧村。旧久慈郡所属。人口6447(2000)。久慈川の支流,山田川に沿った山間地を占める。近世以来,水府タバコの主産地として知られるが,現在,葉タバコの栽培面積はわずかである。1960年代以降,人口減少がすすんでいる。兼業農家がほとんどで,近接する旧常陸太田市,日立市などへの通勤者が多い。竜神峡から男体山にかけての一帯は奥久慈県立自然公園に指定されている。
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常陸太田市南東部の旧市。1954年市制。人口3万9680(2000)。多賀山地を南流する久慈川支流の里川の谷口に開け,中世には佐竹氏の本拠地であり,1602年(慶長7)の佐竹氏の秋田転封後も物資の集散地として栄えた。1889年以来,水戸と鉄道で結ばれるが,JR水郡線のメーンルートからはずれてからは,里川沿いに福島県内陸部までのびていた商圏が崩壊し,発展が遅れた。平野部は水田を主体とする農村地帯で,自然堤防上ではブドウや梨が栽培される。なお1985年に常磐自動車道の日立南太田インターチェンジが開通。市街地西縁近くにある西山(せいざん)荘は徳川光圀退隠の地で,簡素な平屋造の家屋が庭園を配して残り,一般に公開されている。市街北方の瑞竜(ずいりゆう)山には歴代水戸藩主の墓がある。
太田
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世界大百科事典(旧版)内の常陸太田の言及

【太田】より

…茨城県常陸太田市の旧名。すでに《常陸国風土記》や《和名抄》の中に久慈郡太田里・大田郷としてあらわれる。…

※「常陸太田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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