幡崎鼎(読み)はたざきかなえ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「幡崎鼎」の意味・わかりやすい解説

幡崎鼎
はたざきかなえ
(1807―1842)

江戸末期の蘭学者(らんがくしゃ)。長崎の人。初め藤市とも藤平とも称した。出島オランダ商館の傭人(ようにん)として部屋付を勤め、オランダ語習得、1826年(文政9)商館長スツルレルJohan Willem de Sturler(1777―1855)の江戸参府に随行した。1828年シーボルト事件連座町預り中、1830年(天保1)に逃亡し、幡崎鼎と称して、大坂蘭学塾を開き、ついで江戸に開塾。1833年水戸藩西学都講青地林宗(あおちりんそう)病没後、同藩の招きにより『海上砲術全書』などの訳述、蘭学教授に従事した。尚歯会に加わり、渡辺崋山(わたなべかざん)、高野長英小関三英(こせきさんえい)らとともに活躍。1837年藩命でオランダ兵書購求のために長崎に赴き、脱走の旧罪が露見し、長崎奉行(ぶぎょう)所に捕らえられ、江戸に護送されたのち、軽追放、伊勢菰野(いせこもの)藩預けとなり、幽囚4年、その地で病没した。

[片桐一男]

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朝日日本歴史人物事典 「幡崎鼎」の解説

幡崎鼎

没年:天保13.7.2(1842.8.7)
生年:文化4(1807)
江戸後期の蘭学者。名は藤平。シーボルト渡来当時,長崎出島蘭館のオランダ人部屋付の小者であった。シーボルト事件(1828)に連座して,町預 となったが,天保1(1830)年に脱走,幡崎鼎と名乗り,大坂で蘭学塾を開き,のち江戸に出て水戸藩に仕えた(天保5,6年ごろと思われる)。江戸では高野長英らと共に,渡辺崋山の蘭学研究を助けた。また江川太郎左衛門にも新情報を提供している。天保8年4月下旬ごろ,藩命により長崎に出張。おたずね者となっている地を訪れる無神経さには舌を巻くほかないが,案の定正体が露顕して江戸に護送され,同9年12月に軽追放に処せられた。伊勢の菰野藩土方氏に預けられ,幽囚4年で,不遇な晩年を終えた。<参考文献>伊東多三郎「蘭学者幡崎鼎」(『近世史の研究』Ⅱ)

(佐藤昌介)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「幡崎鼎」の解説

幡崎鼎 はたざき-かなえ

1807-1842 江戸時代後期の蘭学者。
文化4年生まれ。オランダ商館でオランダ語を習得。シーボルト事件に連座し町預り中に逃亡。幡崎鼎と名のり,江戸にでて水戸藩につかえる。天保(てんぽう)8年肥前長崎に出張中,脱走の罪で捕らえられ,軽追放,伊勢(いせ)菰野(こもの)藩預けとなる。同地で天保13年7月2日病没。36歳。長崎出身。名は藤市,または藤平。

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