平泉(読み)ヒライズミ

デジタル大辞泉 「平泉」の意味・読み・例文・類語

ひらいずみ〔ひらいづみ〕【平泉】

岩手県南部、西磐井にしいわい郡の地名。北上川が貫流する。奥州藤原3代の栄えた地。平成23年(2011)、「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の名で、中尊寺毛越寺観自在王院跡無量光院跡金鶏山の5件が世界遺産文化遺産)に登録された。

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精選版 日本国語大辞典 「平泉」の意味・読み・例文・類語

ひらいずみ ひらいづみ【平泉】

岩手県南部の地名。北上川が貫流。一二世紀末、藤原氏の居館が置かれて奥州・出羽両国支配の根拠地となり、独自の文化が栄えた。中尊寺、毛越寺などがある。

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日本歴史地名大系 「平泉」の解説

平泉
ひらいずみ

平安末期、藤原氏の栄華のもとで栄えた都市名。「吾妻鏡」文治三年(一一八七)一〇月二九日条に「今日、秀衡入道於陸奥国平泉館卒去」とあるのが平泉の初見とされるが、藤原清衡は江刺郡豊田とよだ(現江刺市)から宿館を「岩井郡平泉」に移したとされ(同書同五年九月二三日条)、清衡当初からの地名と考えられる。

〔みちのくの「内なる境」と「中央」〕

現在の平泉町と胆沢いさわ衣川ころもがわ村は所属郡を異にするが、古代においては一体の地域として把握される。一つは蝦夷の中心地で、「続日本紀」延暦八年(七八九)六月九日条に「胆沢之地、賊奴奥地」と称される胆沢扇状地の南接地帯に位置し、天然の要害ともいうべき地勢のため陸奥国の「内なる境」として認識されていたこと。この地方は奈良時代後期に軍事上の要地として歴史の表舞台に登場するが、平安時代前期までの遺跡がきわめて貧弱なのは、境界地帯という性格のためともいえる。いま一つは平安後期にこの地が陸奥国の中央と認識され、安倍氏および藤原氏がともにその本拠を置いたことによる。すなわち陸奥国の「内なる境」と「中央」の二面性が古代のこの地域の歴史を規定している。

神護景雲元年(七六七)中央政府は伊治これはる(現宮城県栗原郡築館町)を築いて栗原くりはら郡を置き、現岩手県域の攻略に着手した。宝亀七年(七七六)に「胆沢の賊」を陸奥軍三千人で攻め、同一一年に本格的な胆沢進攻のため陸奥按察使兼鎮守副将軍紀広純の建議を入れて、前進基地かくべつ城の建設を計画したが、伊治公呰麻呂の乱により挫折した(「続日本紀」同七年一一月二六日条・同一一年二月二日条など)。なお同城の予定地は一関市山目やまのめ泥田どろたに擬定されているが、同市付近であったことは確実であろう。延暦八年三月二八日、征東将軍紀古佐美は衣川を渡り三ヵ所に前進基地を置いた。「衣川営ころもがわのたむろ」がこれである(同書同年五月一二日条など)。このとき紀古佐美軍は抵抗されずに衣川を越えており、同川は蝦夷の防衛線になっていない。この地域が蝦夷世界と律令国家側との中間地帯・緩衝地帯だったためであろう。紀古佐美軍は衣川営を拠点に北上川の東に集まった蝦夷軍を攻撃したが、阿弖流為のために壊滅的な大敗を喫し、胆沢攻略は同二一年の坂上田村麻呂による胆沢城造営を待たねばならなかった。

〔衣川関〕

胆沢城造営とともに胆沢郡が置かれ、磐井郡もこれと同時かそれ以前に建郡された。これ以降、現衣川村域は胆沢郡に属し、現平泉町域とは郡を異にする。

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百科事典マイペディア 「平泉」の意味・わかりやすい解説

平泉【ひらいずみ】

岩手県平泉町の大字。平安末期に栄えた奥州藤原氏の都市。南流する北上川の西岸に位置し,北を衣(ころも)川,南は太田川に限られる。北には広大な北上盆地が広がり,南方は北上川が迂回して渓谷を形成し,西から複数の丘陵が延びる天然の要害である。いたる所に清水が湧いたと言う。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が胆沢(いさわ)城(現岩手県奥州市水沢区)を築いた802年頃,陸奥国磐井(いわい)郡が建郡されて当地一帯は同国の中央部になった。10世紀頃衣川に関が置かれ東山道が整備された。同国の奥六郡を支配した阿倍氏前九年の役で滅んだのち,出羽の清原氏を経て遺領は後三年の役で勝利を収めた藤原清衡が継承する。清衡が平泉を本拠としたのは11世紀とされ,最初に中尊寺を建立した。1128年没して同寺金色堂に遺体のまま葬られ,中尊寺は清衡の聖廟となる。2代藤原基衡は平泉随一の毛越(もうつう)寺を建立,1157年頃没した。3代藤原秀衡鎮守府将軍・陸奥守に任じられ1187年没した。1189年4代藤原泰衡は平泉に逃れていた源義経源頼朝の圧力に屈して死に至らしめ,自身も討たれた(奥州征伐)。平泉は後家人葛西(かさい)清重の管理下に置かれて平泉保と称された。1226年毛越寺,1337年中尊寺の大半が焼失し,中世末には藤原氏が造営した建造物の大部分が消滅した。藤原氏4代の時代は摂関政治から白河・鳥羽・後白河3上皇の院政期にあたり,藤原氏は馬や金をはじめとする特産品を献上することにより都と密接な関係を持った。造寺・造仏の最盛期でもあり院政と貴族文化を支えたといえる。盛時の平泉は北端の関(かん)山に中尊寺,南東に浄土式庭園を持つ毛越寺があり両寺の堂塔は240余,同寺の東に基衡の妻が建立した観自在王(かんじざいおう)院,北上川のほとりに秀衡が建立した居館伽羅御所,西隣に同じく山城宇治平等院を模した無量光(むりょうこう)院があった。平泉文化の特色は京風文化にあり,造寺・造仏のみならず生活様式も京風であったことがうかがわれる。近世には平泉村・中尊寺村などが成立し,1889年平泉村,1953年町制施行,1955年現在の平泉町となる。現在清衡・基衡・秀衡と泰衡の頭部のミイラを安置する中尊寺,毛越寺のほか,観自在王院跡・柳之御所跡・無量光院跡など多数の遺跡がある。2011年,「平泉 - 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として世界文化遺産に登録された。登録された文化遺産は,中尊寺(金堂,覆堂,経蔵),毛越寺,観自在王院,無量光院跡,金鶏山。
→関連項目奥州征伐義経記世界遺産条約

平泉【へいせん】

中国,河北省北東部,承徳東方の県。別名八溝。錦承鉄路(錦州〜上板城)に沿い,東北地区から北京の関門である古北口に連絡する要地にあたる。付近は農産が豊富で,銀,石炭も産する。48万人(2014)。

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知恵蔵 「平泉」の解説

平泉

平泉は岩手県の内陸部、西磐井郡平泉町にある地名。
平泉一帯は、11世紀末に奥州藤原氏の初代清衡が、岩手県南部の江刺から拠点を移した地と言われている。それまではこの土地を豪族の安倍氏が支配していたが、朝廷に反発したことがきっかけで1051年から62年にかけて前九年の役が始まる。1053年に源頼義が陸奥国守として赴任、安倍氏を牽制(けんせい)した。
一時期は安倍氏側が優勢だったが、出羽国(現在の秋田~山形県)の豪族・清原氏が頼義側に加担したことで形勢は逆転、頼義側の勝利に終わった。安倍氏は処罰され滅亡する。ところが戦功を挙げた源頼義は伊予守に配置替えとなり、奥州を支配したのは清原武則だった。
藤原清衡の父・経清は安倍氏に加担したため戦後処刑され、息子の清衡も同様に処刑されるはずだったが、母が清原氏に嫁いだことで命拾いをする。しかし、母が清原氏との間に真衡・家衡の2人の息子を生んだため、相続争いが勃発。更に源頼義の息子の義家が清原一族の内紛に介入することで、1083年から後三年の役が始まる。真衡・家衡の敗死に伴い、87年に戦いは終結。それ以降、清衡は陸奥の奥六郡と出羽の山北三郡の支配権を得る。拠点を平泉に移し、1124年に「今後、戦争のない世になるように」との願いを込めて中尊寺を建立した。奥州は金の産出が豊富で、中尊寺の金色堂は外面、内面、須弥壇(しゅみだん)まで金箔で覆われている。ちなみに最近の研究では、マルコ・ポーロが『東方見聞録』に記した「黄金の国・ジパング」は平泉の中尊寺や毛越寺などに施された黄金を指している可能性が高いと言われている。
28年、清衡は中尊寺で眠るように亡くなり、遺体は金色堂に葬られた。清衡の遺志を継いで、二代基衡は毛越寺を、三代秀衡は無量光院を建立する。初代清衡から三代秀衡まで約100年間、奥州を藤原氏が治めたが、平安末期、兄である源頼朝との不和のため、源義経が奥州に潜伏。1189年、四代泰衡は義経を大将とするようにという秀衡の遺言にもかかわらず、義経を自害に追い込む。その後、義経を匿ったとして頼朝軍が奥州に押し寄せ、これにより奥州藤原氏は滅亡した。平泉の中尊寺・毛越寺などの寺院や庭園は藤原氏三代が仏教に基づく極楽浄土の理想世界の実現を目指して造営された。これら建造物が浄土思想を表現する目的で創造された独特の事例であることが評価され、2011年6月に世界文化遺産に登録された。登録対象は中尊寺・毛越寺・観自在王院跡・無量光院跡・金鶏山である。平泉は08年にも登録を申請したが見送られ、今回念願の登録が実現した。日本国内の世界遺産としては16件目に当たる。11年3月に起こった東日本大震災の影響で観光客が減っている東北地方にとって大きな喜びとなり、地元平泉町では「観光風評被害対策プロジェクトチーム」を設け、観光客の誘致にも力を入れている。

(金廻寿美子  ライター / 2011年)

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改訂新版 世界大百科事典 「平泉」の意味・わかりやすい解説

平泉[町] (ひらいずみ)

岩手県北上盆地南部,西磐井(にしいわい)郡の町。人口8345(2010)。大和朝廷の蝦夷経営時代から北上盆地をおさえるための軍事上の要地で,1094年(嘉保1)藤原清衡によって居館がつくられて以来,1189年(文治5)源頼朝によって滅ぼされるまで奥州藤原氏4代にわたって平泉文化が展開された。北上川に注ぐ磐井川と衣川を分離する平泉丘陵には,衣川館,中尊寺,金鶏山南麓の毛越寺(もうつじ),2代基衡の妻が建立した観自在王院跡,3代秀衡が宇治平等院を模して建てた無量光院跡(特史)など多くの史跡が残っている。春秋の藤原祭,毛越寺あやめ祭などの行事があり,観光地として全国的に有名である。町の中央部を流れる北上川流域の一帯は,耕地整理された水田が広がり,北上川東部の長島地区では,古くからリンゴ栽培が盛んである。町の中央部を国道4号線が通り,JR東北本線平泉駅や東北自動車道平泉前沢インターチェンジを擁し,交通の便に恵まれている。伝統工芸に秀衡塗がある。2011年6月,ほぼ町の中心部に当たる中尊寺・毛越寺・観自在王院跡・無量光院跡などが,〈平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群〉として世界文化遺産に登録された。
平泉文化
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「平泉」の解説

平泉
ひらいずみ

岩手県南部,北上川と衣(ころも)川の合流点以南に位置する。古くから軍事上の要衝で,平安時代には衣川関がおかれ,衣川以北の胆沢(いさわ)郡など奥六郡とそれ以南の諸郡の境界にあたる。奥六郡を支配したのが安倍(あべ)氏であったが,後三年の役後,藤原清衡(きよひら)が江刺郡豊田館から磐井郡平泉に移居して以来,約1世紀の間,奥州藤原氏の拠点として繁栄した。1189年(文治5)藤原氏滅亡後は奥州惣奉行葛西氏が支配し,近世に入って仙台藩領。1953年(昭和28)町制施行。中尊寺金色堂や毛越(もうつう)寺は著名。また最近の発掘調査によれば,柳之御所跡は中世都市の原型を示す貴重な遺跡であり,「吾妻鏡」にみえる平泉館(ひらいずみのたち)で,秀衡(ひでひら)時代の政庁跡と考えられる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「平泉」の解説

平泉
ひらいずみ

岩手県南部,北上川中流域にある町。平安後期,奥州藤原氏の本拠地として栄えた
1094年藤原清衡が居館を構えて以来,藤原3代の栄華の都として繁栄。京の藤原文化が移入され,中尊寺・毛越 (もうつ) 寺・無量光院などが建てられたが,藤原氏滅亡とともに荒廃した。

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[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション 「平泉」の解説

ひらいずみ【平泉】

埼玉の日本酒。蔵元は「平泉酒造」。現在は廃業。蔵は飯能市下直竹にあった。

出典 講談社[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクションについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の平泉の言及

【奥州藤原氏】より

…それは父の経清が前九年の役で安倍頼時,貞任に味方したため源頼義に殺され,母の安倍氏(頼時の娘)が乱後清原武貞に再嫁したためである。その後清衡は,後三年の役で源義家とともに異父兄弟の清原家衡と戦って勝ち,安倍・清原両氏の支配権をそっくり継承し,1094年(嘉保1)ごろ磐井郡平泉に居を定めた。以後4代にわたって,藤原氏はそこを根拠地として奥羽に勢力をふるい,また京風の仏教文化を移入してその地を都市化した。…

※「平泉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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