平賀粛学(読み)ひらがしゅくがく

改訂新版 世界大百科事典 「平賀粛学」の意味・わかりやすい解説

平賀粛学 (ひらがしゅくがく)

1939年に起こった東京帝国大学経済学部教授会の粛清事件。滝川事件(1933)以来帝国大学内の自由主義者に対する右翼勢力の攻撃は強まっていたが,荒木貞夫の文相就任(1938)以来,文部省も大学の自治への介入の姿勢をいっそう強めていた。そのころ同学部では,河合栄治郎を中心とする一派と,土方成美などのファッショ的勢力との間で対立が続いていた。1938年10月河合の著作が発禁処分にあうや,大学人としての河合の処分を要求する学内外の右翼勢力の動きは高まりを見せた。38年12月総長に就任した平賀譲は,河合の著作を審査した後,39年1月慣例に反して経済学部教授会にはかることなく河合と土方辞職を勧告し,断られるやまず河合の休職を,後に土方の休職を文官高等分限委員会に具申し,同委員会は両名の休職処分を決定した。この辞職勧告に抗議して,河合,土方両派合わせて教授4名,助教授4名,講師1名,助手4名が辞表を提出したが,後に慰留に応じて助教授・講師全員と助手3名が辞表を撤回した。外からの大学の自治破壊の圧力の中で,喧嘩両成敗の形で自主的処分をおこなった平賀粛学は,結局は大学の自治と学問研究の自由を制約させ後退させる役割を果たした。
河合事件
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「平賀粛学」の解説

平賀粛学
ひらがしゅくがく

東京帝国大学経済学部の内部抗争解決のため,平賀譲総長が両派の中心人物河合栄治郎と土方成美(ひじかたせいび)の両教授を休職処分にした事件。1938年(昭和13)12月総長に就任した平賀は,著書の発禁処分で文部省から処分を迫られていた河合の問題と,積年の経済学部教授会の派閥抗争を解決するため,河合の著書についての審査委員会と学部長会議の審議をうけ,翌年1月経済学部教授会にはかることなく,自己の責任において河合と土方の休職を文部大臣に具申した。これをうけた文官高等分限委員会により両教授の休職が発令されると,学部の自治慣行無視と思想処分的な決定に抗議した教授・助教授・助手ら多数が辞表を提出。一部教官の辞表撤回や補充人事などにより,経済学部は40年に正常に戻った。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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