広岡久右衛門(読み)ひろおか・きゆうえもん

朝日日本歴史人物事典 「広岡久右衛門」の解説

広岡久右衛門

江戸時代の大坂豪商,加島屋当主代々の通り名。村上源氏の流れをくむと伝えられ,もと摂津国川辺郡浪花村に居住したが,寛永2(1625)年業祖正教が大坂御堂前に移住して,加島屋久右衛門と号し,精米業を始め,同時に両替業を営んだ。その後,家業繁栄とともに,諸藩の蔵屋敷が立地し,蔵米の取り扱いに便利であった玉水町に移り,両替店兼諸国取引米問屋として発展した。享保16(1731)年,堂島米会所の公許に伴い,米仲買株が幕府により公認された際には,他の4家と共にその取締役として米方年行司に任ぜられ,堂島で重きをなす商家となった。加島屋久右衛門家は両替商でもあったが,通常の両替商とは異なり,堂島米市場と深いつながりを持つ入替両替であった。入替両替とは,諸藩蔵屋敷が発行する米切手を担保にとって資金の融通を行う,もしくは米切手を貸し付ける両替商で,多額の資本を要し,大坂では十人両替に次ぐ大両替商であった。加島屋は蔵米取引と深く関係していたから,上野高崎,豊前中津,長州,筑前,越前,加賀などに大名貸を行った。江戸中期以降,大坂町人に御用金などが課せられたときには,加島屋久右衛門は鴻池善右衛門とならんで最高額を拠出しており,大坂町人のトップランクに位置していたといえる。幕末・維新期には貸付残高を持っていた大名は100以上におよんでいたといわれ,その多くは維新政府の藩債処分により損失となったが,なお家産を維持し,兵庫商社や大阪通商会社・為替会社設立の際には主導的役割を果たした。<参考文献>宮本又次『大阪町人』

(宮本又郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「広岡久右衛門」の意味・わかりやすい解説

広岡久右衛門 (ひろおかきゅうえもん)

江戸・明治期の大坂財界人の名跡。玉水町(現,西区土佐堀通)に米問屋と両替業を兼営した加島屋広岡家は堂島米市場の重鎮として幕府・諸藩の財用に貢献した。8代正饒は1867年(慶応3)兵庫商社肝煎,9代正秋(1844-1909)は明治新政府の会計基立金徴募,明治天皇東幸の御用掛,為替会社・通商会社惣頭取等を歴任。88年加島銀行を創立,のち大同生命保険会社社長,堂島米穀取引所理事長となる。
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世界大百科事典(旧版)内の広岡久右衛門の言及

【加島屋】より

…江戸時代の大坂の富商。大坂の加島屋には広岡久右衛門家を本家とする暖簾内(のれんうち)と,長田作兵衛家を本家とする暖簾内の2系統があった。両家とも堂島米市場に関係する入替両替(米切手担保の金融業)を主業とし,大名貸を手広く行い,諸藩の蔵元を務めた。…

※「広岡久右衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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