広沢安任(読み)ひろさわやすとう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「広沢安任」の意味・わかりやすい解説

広沢安任
ひろさわやすとう
(1830―1891)

会津藩士広沢牧場の創設者。藩校日新館に学び、のち昌平黌(しょうへいこう)に入った俊才。会津落城後、斗南(となみ)藩で少参事を勤め御家再興に努力した。廃藩置県後は大久保利通(としみち)らの勧めも断って官に仕えず、1872年(明治5)青森県上北郡百石(ももいし)村谷地頭(やちがしら)(三沢市)の湿原に英式大農法による広沢牧場を開設。イギリス人ルセー、マキーンらを雇い、洋式牧場経営の先鞭(せんべん)をつける。牧老人、牛馬王、六十九種艸堂(ろくじゅうきゅうしゅそうどう)主人などと号す。『奥隅(おうぐう)馬誌』『青森県南部三郡牧馬記』などとともに牧場開設の苦心を記した『開牧五年記事』が有名。また八戸(はちのへ)藩大参事を勤めた太田広城と図り、今日の青森県誕生にも大きくかかわった人物でもある。

[工藤睦男]


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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「広沢安任」の解説

広沢安任 ひろさわ-やすとう

1830-1891 幕末-明治時代の武士,牧場経営者。
文政13年2月2日生まれ。陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩士。京都守護職となった藩主松平容保(かたもり)に随行し,公用人として活躍。戊辰(ぼしん)戦争では和平のため単身総督府にのりこみ捕らえられた。藩の斗南(となみ)移封(いほう)後は少参事となり,旧藩士の救済,開拓につとめ,西洋式大農法をとりいれた広沢牧場をひらく。明治24年2月5日死去。62歳。通称は富次郎。号は牧老人。
格言など】人々自ら喩(さと)らざるなり……人位等品の説自ら発せざるを得ず(信条)

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