広済寺(読み)コウサイジ

デジタル大辞泉 「広済寺」の意味・読み・例文・類語

こうさい‐じ〔クワウサイ‐〕【広済寺】

兵庫県尼崎市にある日蓮宗の寺。天徳3年(959)多田満仲の創建と伝える。正徳4年(1714)日昌が復興。近松門左衛門の墓がある。

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精選版 日本国語大辞典 「広済寺」の意味・読み・例文・類語

こうさい‐じ クヮウサイ‥【広済寺】

兵庫県尼崎市久々知にある日蓮宗の寺。山号は久久地山。天徳三年(九五九)領主多田(源)満仲が創建。正徳四年(一七一四)日昌が近松門左衛門の助力により再建。近松の墓がある。近松寺

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日本歴史地名大系 「広済寺」の解説

広済寺
こうさいじ

[現在地名]八代町奈良原

奈良原ならはら集落北東の丘陵中腹に位置し、門前を県道八代―芦川あしがわ三珠みたま(旧若彦路)が南下する。山号は宝樹山、臨済宗向嶽寺派。本尊は釈迦如来武田信春(法号は広済寺殿華峯芳春大禅定門)の帰依を受けた向嶽こうがく(現塩山市)三世峻翁令山の法嗣虎渓道竜により開かれた。開創は康応年間(一三八九―九〇)(甲斐国志)とも、応永一六年(一四〇九)(寺記)ともいう。文安六年(一四四九)五月二六日、広済庵は河村隼人・船越因幡守両人より竹木の伐採や狼藉を禁ずる禁制(「河村隼人・船越因幡守連署禁制」広済寺文書)を与えられた。検討の余地があるが、天文二年(一五三三)八月二七日には、武田信虎が「けんだん」(検断)の入寺や「地頭・代官いろひ」(綺)を禁ずるなど、七ヵ条からなる禁制(「武田信虎禁制」同文書)を与えている。

広済寺
こうさいじ

[現在地名]高柳町高尾 坪野

坪野つぼのの集落の北端にある。曹洞宗、円通山と号し、本尊如意輪観音。脇侍は不動明王と毘沙門天。天正三年(一五七五)当時の僧柏庭の記した広済寺勧進帳(刈羽郡旧蹟志)によると、嘉吉年中(一四四一―四四)に佐橋朝広が不琢了圭と図って黒姫くろひめ山麓の勝地を選んで一宇を結び、広済寺としたとある。また七代海翁蘆門の建築棟札には、佐橋朝広が父追善のため建立したとある(同書)。佐橋朝広については、北条毛利氏の二代道幸の次男で、応安七年(一三七四)四月二七日の毛利安田道幸譲状(毛利安田氏文書)鵜河うかわ安田やすだ条の地頭職を譲られた修理亮朝広(安田憲朝)がみえる。

広済寺
こうさいじ

[現在地名]津幡町領家

領家りようけの集落南部に位置。単立寺院で龍松山と号する。本尊阿弥陀如来英田あがた広済寺とよばれる。貞享二年寺社由緒書上によれば、永正八年(一五一一)光受が当地に開創したとするが、寺院明細帳はもと真言宗龍松りゆうしよう寺で、文明三年(一四七一)北陸巡錫の蓮如に徳斎が帰依して改宗したとする。現集落の北西、通称マッチャマ(松山)にあったとされるが(河北郡誌)菩提寺ぼだいじにあったとも伝えられる。長享二年(一四八八)の一向一揆の際、英田光済寺を大将とする河北の将兵五千余騎が、倶利伽羅くりからを越えて富樫政親救援に駆付けようとした越中勢を撃破したという(官知論)

広済寺
こうさいじ

[現在地名]光町虫生

虫生むしよう集落の中央部にあり、慈士山地蔵院と号し、真言宗智山派。本尊は地蔵菩薩。「下総国匝瑳郡虫生村鬼面略縁起」などによると、遍歴中の薩摩の僧石屋が虫生村の辻堂に泊った夜、妙西(城主椎名連高の娘)が地獄の鬼に呵責されるさまを夢にみ、翌日これを妙西の両親に話すと、連高が娘の成仏と自らの罪障消滅のため建久七年(一一九六)一寺を建立したのが始まりという。寛永一〇年(一六三三)の関東真言宗新義本末寺帳によると、当寺は米倉よなぐら(現八日市場市)西光さいこう寺末寺で、大須賀おおすか(現大栄町)大慈恩だいじおん寺など一一ヵ寺の末寺を有し、西光寺の末寺中、最上位であった。

広済寺
こうさいじ

[現在地名]金沢市扇町

江戸時代の御小人おこびと町の南東、現おうぎ町の北東部にある。武佐山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。近江国武佐むさ(現滋賀県近江八幡市)から移ってきたとされ、武佐広済寺と通称される。天文一五年(一五四六)金沢御堂が創建された際、慶信とともに「広済寺」が堂衆として差下され金沢へ下向した(「天文日記」同年一〇月二九日条、「私心記」同日条)

広済寺
こうさいじ

[現在地名]近江八幡市武佐町

武佐むさ町の北東部にある。太子山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、大同坊了仙が嘉禎元年(一二三五)に親鸞に帰依したことに始まるというが、天保下寺帳によれば、永正九年(一五一二)祐年によって開創され、享保六年(一七二一)木仏を許されている。寺蔵の親鸞絵像の裏書では願主名は判読できないものの、永正九年の年紀と「佐々木庄内武佐郷広済寺常住寺物」などと読め(蒲生郡志)、開基はもう少しさかのぼるであろうか。「天文日記」では斎の相伴衆に姿をみせ(天文七年八月二〇日・八年二月二日・一五年二月二日各日条など)、天文一六年(一五四七)一二月九日・同二一年八月二〇日の斎などに「ムサ祐乗」とみえるのは当寺歴代と思われる。

広済寺
こうさいじ

[現在地名]川越市喜多町

青鷹山慈願院と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。寺伝によれば、天文一七年(一五四八)大道寺政繁が武州青梅の天寧てんねい寺五世の広庵芸長を開山に招き、菩提寺として創建したという(武蔵三芳野名勝図会)。その後上州の人本田右近親氏(元和四年没、法名基阿経範)が再興したという(風土記稿)。当寺所蔵の現存史料は安永九年(一七八〇)の金毘羅縁起や安政三年(一八五六)の永平寺涅槃号授与状など以外は明治期のものが中心である。

広済寺
こうさいじ

[現在地名]七宝町桂 寺附

天桂山と号し曹洞宗。本尊は釈迦牟尼如来。「徇行記」に「当寺書上ニ境内一町七反内一町五反七畝御除地、一反三畝年貢地、草創ハ嘉吉元年辛酉八月、芸州広島正光寺ノ主僧天真大用和尚、鎌倉義教公請待ニ因テ帰錫ノ時、此桂町ニ至リ当寺ヲ開基ス、即当寺ノ開山也、其比末葉凡七十二ケ寺アリト云、天文年中織田大和守敏定コヽニ来リ、自筆ヲ以テ天桂山広済寺ト額字ヲ賜リ、其上ニ八町四反ノ寺産ヲ寄附アリ」とあり、永禄六年(一五六三)一〇月二七日の織田信長寄進状などが当寺に宛てられたことを記す。

広済寺
こうさいじ

[現在地名]豊田市東広瀬町 大根坂

極楽山と号し、曹洞宗奇伝派。本尊は釈迦如来。嘉慶二年(一三八八)の創建と伝え、東広瀬ひがしひろせ城主三宅氏の菩提寺で、東広瀬城跡の東に位置する。近世には、市域より北の現西加茂郡藤岡ふじおか町・小原おばら村方面において末寺八ヵ寺をもつ。

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改訂新版 世界大百科事典 「広済寺」の意味・わかりやすい解説

広済寺 (こうさいじ)
Guǎng jì sì

中国,北京市西城区阜成門内大街(旧羊市大街)にある古刹。13世紀の金朝末期に創建され西劉村寺と号したが,明代15世紀中葉に再興,弘慈広済寺と改名された。日中戦争の時期には抗日運動の拠点寺院であった。現在は中国仏教協会がここに置かれ,多宝殿には日本をはじめアジア各国の仏教界から贈られた友好の品が陳列されている。大雄宝殿の須弥壇背後の壁面に描かれた指頭画の大作《勝果妙因図》は,1744年(乾隆9)に乾隆帝の勅を奉じて作られた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「広済寺」の意味・わかりやすい解説

広済寺
こうさいじ
Guang-ji-si

中国,河北省宝ち県にある寺院。同寺の三大士殿は遼代の太平5 (1025) 年に建立された寄棟造の堂々たる大建築で,3体の坐仏像を本尊とするのでこの名がある。

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