建内記(読み)ケンナイキ

デジタル大辞泉 「建内記」の意味・読み・例文・類語

けんないき【建内記】

室町中期の公卿万里小路時房までのこうじときふさ(1394~1457)の日記。応永21~康正元年(1414~55)の部分現存欠落も多いが、土一揆など当時の社会状況を知る重要史料。建聖院内府記。

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改訂新版 世界大百科事典 「建内記」の意味・わかりやすい解説

建内記 (けんないき)

〈けんだいき〉とも読む。室町時代の貴族の日記。記主は,勧修寺藤原氏出の建聖院内府万里小路(までのこうじ)時房(1394-1457)。1414年(応永21)-1455年(康正1)が断続して現存するが,とくに永享(1429-41)末年から嘉吉・文安年間(1441-49)の部分は,集中的に原本が残っている。原本は,記主あての手紙などの紙背を利用して書かれたものが多く,日記の理解を助ける場合が多い。時房は,中山定親(《薩戒記》の記主)らとたびたび朝廷の重事の諮問にあずかったほか,南都伝奏や勧修寺氏長者などを経歴し,また幕府とも関係が深かったため,日記は政治・社会についての貴重な記事に富んでいる。将軍足利義教暗殺や嘉吉の徳政令発布などの経緯を記す部分がその例である。原本が近年まで原状に近い形で伝えられていたため,往時巻子本の日記は,前後に表紙をもち左巻き右巻き自由自在であったらしい点などが確かめられる。《大日本古記録所収
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百科事典マイペディア 「建内記」の意味・わかりやすい解説

建内記【けんないき】

室町時代の公家である万里小路時房(までのこうじときふさ)の日記。〈けんだいき〉とも読む。万里小路家藤原氏北家(ほっけ)から出た勧修寺(かじゅうじ)家の一流で,時房は勧修寺流藤原氏一門の氏長者(うじのちょうじゃ)となり,法号を〈建聖院内府(けんしょういんないふ)〉と称された。書名は《建聖院内府記》の略称。記事は1414年から1455年まで断続して現存し,室町中期の政治・社会を知るうえで貴重。特に将軍足利義教(よしのり)暗殺事件(嘉吉(かきつ)の乱)や嘉吉の徳政一揆についての記述は興味深い。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「建内記」の意味・わかりやすい解説

建内記
けんないき

「けんだいき」とも読み、『時房公記(ときふさこうき)』『建聖院(けんしょういん)内府記』ともいう。内大臣万里小路(までのこうじ)時房(1394―1457)の日記。建聖院は時房の法号。現存の部分は、1414年(応永21)から55年(康正1)まで。中間の散逸した年月も多い。時房は公武の信任厚く、南都伝奏(なんとてんそう)も務めたため、貴重な記事が多い。また嘉吉(かきつ)の乱や続いて起こった土一揆(つちいっき)、さらに一揆の要求をいれた徳政令発布に至るまでの記事は有名。自筆本は宮内庁書陵部や京都大学図書館ほかに多く遺(のこ)されている。『大日本古記録』所収。

[益田 宗]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「建内記」の意味・わかりやすい解説

建内記
けんないき

室町時代前期,万里小路 (藤原) 時房 (1394~1457) の日記。現在,応永 21 (1414) 年から康正1 (55) 年までが知られ,自筆の原本も 60巻が現存。記事は筆者のきちょうめんな性格を反映して,公私にわたり細大漏さず書きとめられ,朝幕関係にも及んでいる。また没落しつつある荘園領主の一人として,家政に心を砕いているさまを克明に記すなど,社会経済史上でも貴重な史料である。『建内記』というのは,建聖院内府記という意味である。『大日本古記録』所収。

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