弘長新制(読み)こうちょうしんせい

改訂新版 世界大百科事典 「弘長新制」の意味・わかりやすい解説

弘長新制 (こうちょうしんせい)

亀山天皇の弘長3年(1263)8月13日宣下された公家新制。弘長1年5月にも新制が出されたが,普通3年の方を意味する。全41条。発布の事情に関する史料を欠くが,弘長1年12月に鎌倉幕府が立法した全61条の《関東新制条々》に対応して出されたと考えられ,寛喜新制に次いで条文数が多く,各規定も詳細・具体的で,以後の新制の一つの規範とされた。仏神事興行,過差の停止,吏務の戒粛など従前の新制を踏襲した面も多いが,やや文飾の少ない達意を旨とした文章が用いられており,任官叙位に関する詳細な規定や,二,三の裁判規定,印地(いんじ)打の禁制などの事項が注目される。ただ寛喜新制までは見られた大犯(だいぼん)三箇条の施行を幕府に命ずる形の全国的統治権に関する規定を欠くのは重視すべきである。国立公文書館内閣文庫所蔵の興福寺大乗院旧蔵の古写本が唯一の完本。《続々群書類従》《日本思想大系》所収。
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百科事典マイペディア 「弘長新制」の意味・わかりやすい解説

弘長新制【こうちょうしんせい】

亀山天皇後嵯峨院の代の弘長3年(1263年)に発せられた41ヵ条の公家新制。弘長元年(1261年)にも21ヵ条の公家新制が発せられたが,一般に前者をさす。従来の新制を継承した部分も多いが,任官・叙位などの細目を規定して朝廷秩序の回復を図った点,幕府に対抗したと思われる訴訟条項などに注目すべきものがある。具体的で詳細な条文で,のちの公家新制・公家法影響を与えた。→保元新制建久新制寛喜新制

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「弘長新制」の解説

弘長新制
こうちょうしんせい

鎌倉中期の弘長年間に発布された公家新制。1261年(弘長元)5月11日付と,63年8月13日付の二つある。弘長元年令は,同年が辛酉の年にあたったため,徳政一環として発布された。21カ条だったことが知られるが,弘長3年令に継承された5カ条のほかは不明。また同年の2月,幕府も61カ条に及ぶ「関東新制条々」を発している。弘長3年令は天変契機に徳政として発布,41カ条からなる。内容は,伊勢神宮に対する幣帛(へいはく)の興行などの神事・仏事関係,華美の禁止,朝廷公事(くじ)の興行など。道祖神など辻祭(つじまつり)の風流(ふりゅう)や華美の禁止とともに,飛礫(つぶて)の禁止,印地(いんじ)と称する悪徒の戒めもみられる。

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