張献忠(読み)ちょうけんちゅう(英語表記)Zhāng Xiàn zhōng

改訂新版 世界大百科事典 「張献忠」の意味・わかりやすい解説

張献忠 (ちょうけんちゅう)
Zhāng Xiàn zhōng
生没年:1606-46

中国,明末農民反乱において,李自成とならび称された指導者。陝西省延安衛柳樹貧農に生まれ,長じて北辺守備隊の兵士となったが死罪を犯し,あやうくのがれた。当時,陝西地方民衆明朝悪政とあいつぐ干ばつ飢饉に生活は破壊され,各地に暴動が起こっていた。彼は1630年(崇禎3)米脂県18寨の農民を率いて蜂起し,やがて王嘉胤の部隊と合流して八大王と称した。王嘉胤が戦死したのちは高迎祥(?-1636)の部下となり,一軍の首領として活躍した。高迎祥が殺されてからは李自成とたもとを分かち長江揚子江流域転戦,一時谷城(湖北省)で明軍に下ったが再起し,四川に入って成都を根拠地として帝位につき,大西国を建て,大順と建元した。彼の軍団は軍規厳正で,3年免糧などのスローガンを掲げ,また奴僕佃戸の反乱組織と結ぶなど注目すべき動きを示した。しかし後期には民衆を殺戮するなどの政策をとり,根拠地経営に失敗し,進攻してきた清の粛親王豪格の軍に討たれた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「張献忠」の意味・わかりやすい解説

張献忠
ちょうけんちゅう
(1606―1646)

中国、明(みん)末、崇禎(すうてい)年間(1628~44)の反乱の首領。陝西(せんせい)省延安の貧農に生まれる。一時、延綏(えんすい)鎮の守備兵となったが、1630年米脂(べいし)県の農民を率いて決起、八大王を称し、各地の農民軍と不即不離の関係をもって、陝西から河南、湖北、安徽(あんき)に転戦。四川(しせん)に入ったが利あらず、反転して43年、武昌(ぶしょう)を攻略、大西王と称した。翌年ふたたび四川に進み、重慶(じゅうけい)、成都を落とし、ここで帝位につき大西国を建て、元号を大順、成都を西京(せいけい)とし、このころ華北に活躍していた李自成(りじせい)と並ぶ首領となった。建国後、湖南、江西も攻略し、軍規を厳しくして殺傷暴行を禁じた。また、3年間租税を免除し、農奴を解放、婆子(ばし)軍という婦人部隊を編成して婦人の権利を認めるなど、目新しい政策で農民をひきつけた。しかし、そのために、中小地主、士太夫の支持がなく、李自成と連合することもできず、清(しん)軍の南下に呼応した四川の地主らの弾圧を受け、3年間抵抗したが戦死した。

[星 斌夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「張献忠」の意味・わかりやすい解説

張献忠
ちょうけんちゅう
Zhang Xian-zhong; Chang Hsien-chung

[生]万暦34(1606).陝西,延安
[没]順治3(1646).12. 四川,順慶
中国,明末の農民反乱の指導者。崇禎3 (1630) 年陝西北部の政治的危機と相次ぐ飢饉で王嘉胤の農民一揆が起ると,これに加わって八大王と称した。次いで高迎祥の配下に属し,山西,河南に勢力を拡大したが,同8年のけい陽 (河南省) の戦略会議で李自成 (→李自成の乱 ) と意見を異にし,翌年から独自に湖広,四川方面に活動を展開し,同 16年には武昌を破って大西王と称した。翌年四川に入り重慶を取り,成都を破って帝位につき,国号を大西,年号を大順と定めた。彼は官僚,地主勢力に対し仮借なき攻撃を加えたが,明が滅びたのち清軍の攻撃にあってこれと対決し,戦死した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「張献忠」の解説

張献忠(ちょうけんちゅう)
Zhang Xianzhong

1606~46

明末の流民反乱の首領。陝西(せんせい)省延安の人。初め陝西地方に起こった民衆の反乱に加わったが,やがてみずから首領として華中を転戦した。1644年四川省に入り,成都で即位して国号を大西,年号を大順と称した。しかし明に代わった清の満洲軍の攻撃に敗れ戦死した。

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