強制栽培制度(読み)きょうせいさいばいせいど

改訂新版 世界大百科事典 「強制栽培制度」の意味・わかりやすい解説

強制栽培制度 (きょうせいさいばいせいど)

オランダが1830年にジャワで始めた農業経営制度。オランダ語では単に栽培制度Cultuurstelselというが,ふつう強制栽培制度と意訳される。ただしこれは通称で,公式には政府管掌栽培という。国家財政のために政府が権力を行使して,住民に一方的に定めた低い栽培賃金で世界市場向け農産物を栽培,製品化させる,植民地の農業的収奪の制度と定義することができる。植民地でのジャワ戦争パドリ戦争,本国でのベルギーの分離独立や財政運営の失敗などによって生じた財政危機を克服するために,1830年ファン・デン・ボスが東インド総督着任と同時に,純益政策の重要な柱として,王侯領を除くジャワ全州にこの制度を導入した。従来のモルッカとジャワの一部でのチョウジや米などの強制供出制度や,西ジャワのプレアンゲル制度によるコーヒーの強制供出を拡大強化したものである。しかし単一の制度があったのではなく地方的制度の総称で,実態も地方差が大きい。ジャワ以外ではミナハサとスマトラ西海岸州でコーヒーの強制栽培が行われた。

 おもな作物はコーヒー,サトウキビ,アイで,その他コショウ,チョウジ,ニクズク,ニッケイ,コチニール,茶,タバコがある。このうちサトウキビ,アイなどは水田に栽培された。サトウキビやアイなど製品化に加工を要する場合に,それが政府直営工場または政府と契約した民間工場(ヨーロッパ人,中国人の所有)で行われるほかは,植付けから製品化,政府の倉庫への納入まで,すべて住民によって行われた。世界市場への輸送と販売は〈オランダ商事会社〉に委託された。作物の種類と量,土地の選定,労働の動員などの指示はヨーロッパ人官吏から原住民首長に,そして村長に伝えられ,栽培は村単位で管理された。村長以上は生産量に応じた〈栽培歩合〉を得たが,ノルマを達成しないと処罰された。住民には低い栽培賃金が払われたが,そのほとんどは地租などの税として政府に還流し,住民はまた無償の栽培夫役にも服さねばならなかった。住民は過重な負担に苦しみ,稲作の放棄を余儀なくされるなど農村の疲弊が進み,スマラン州(1848-50)などで大規模な飢饉が発生するようになった。ムルタトゥーリの小説《マックス・ハーフェラール》(1860)によって強制栽培制度に批判的なオランダ世論が形成され,62-66年にコーヒーとサトウキビ以外の,利益の上がらない作物の強制栽培は廃止された。サトウキビは70年の砂糖法に従って79-91年の間に廃止され,コーヒーは19世紀末期には重要性を失ったが,1917年まで続いた。

 この制度によってオランダの国家財政は莫大な純益(1831-77年に8億2300万ギルダー)を得,契約工場,オランダ商事会社など関連事業の利益も莫大であった。この資本蓄積がオランダの産業革命を促進し,東インドにおける民間資本主体の農業植民地化をもたらした。他方,原住民首長・村長の住民に対する権力と国家権力への従属が強化され,また農地の共同的占有が強まるなど,ジャワ社会の奇形化が生じた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「強制栽培制度」の意味・わかりやすい解説

強制栽培制度
きょうせいさいばいせいど
Cultuur-stelsel

ジャワ島で1830年からオランダによって始められた植民地経済政策。インドネシア地域におけるオランダの植民地支配の歴史は香料供出の強制を幕開きとするが、18世紀初頭ヨーロッパにおけるコーヒー需要の増大に着目したオランダは、ジャワ島西部にそれを栽培させ、住民首長層に対し産物の供出を義務づけた。さらに18世紀なかば以降ジャワ島中・東部にも支配領域を広げた彼らは、その地の豊かな米に注目し、華僑(かきょう)などに水田地帯の村落をまるごと貸して米の生産販売を任せる「村落賃貸制」を生み出した。支配当初からの「強制供出制」と後の「村落賃貸制」の連接、つまり、ヨーロッパ人または華僑の請負人を選び、商品作物の栽培、製品化、供出の責任を負わせ、他方、村落支配者層には村落単位の用地選定から栽培その他の労働力提供の管理義務を課すという形で、ヨーロッパ市場向け作物供出を図って案出されたのが、この制度である。1830年、時の総督ファン・デン・ボスがこの制度の実施に踏み切ったのは、オランダ本国の財政危機を救い、ジャワ戦争などによる植民地における膨大な出費を償うためであったが、商品作物を実際に栽培させられた農民にとっては、労働力とともに、村落内の土地に対する父祖伝来の耕作権も恣意(しい)的な政策によって奪われることがしばしば起こった。ことに藍(あい)と甘蔗(かんしょ)(サトウキビ)の栽培は農民の米作に強い圧迫を加えた。1870年には農地法、砂糖法が出されてこの制度にもいちおうの終止符が打たれたが、植民地支配がより巧妙な段階へと展開するのは、実はこれ以後であった。

[森 弘之]

『和田久徳・森弘之・鈴木恒之著『東南アジア現代史I』(1977・山川出版社)』

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「強制栽培制度」の解説

強制栽培制度(きょうせいさいばいせいど)
cultuurstelsel

ジャワ戦争の出費やベルギー独立により財政建て直しを迫られたオランダが,1830年東インド総督ファン・デン・ボスのもとで東インドに導入した,特定の農産物を住民に栽培させ,決めた量を指定した額で買い上げる制度。ジャワではサトウキビ,コーヒー藍(あい),綿花,胡椒(こしょう),肉桂(にくけい)などが主な対象となり,19世紀終りまで実施された。これによりオランダの財政は立ち直り,ジャワでは村落が強固に再編され,水田がふえ人口の増加を招いた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「強制栽培制度」の意味・わかりやすい解説

強制栽培制度
きょうせいさいばいせいど
Cultuurstelsel

オランダ領東インドの農産物生産および供出制度。 17世紀末頃ジャワやモルッカ諸島で農産物の強制供出を命じたのに始るが,正式には 1830年オランダ東インド総督ファン・デン・ボスが,ジャワの各村落耕地の5分の1以内の部分に,コーヒー豆,アイ,茶,サトウキビなど政府の指定する作物を栽培させ,その収穫物または加工品を一定価格で買取った制度をいう。オランダはこれにより巨利を得たが,農民の負担ははなはだしく,19世紀末に実質上廃止。

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旺文社世界史事典 三訂版 「強制栽培制度」の解説

強制栽培制度
きょうせいさいばいせいど
cultuur-stelsel

植民地のジャワ島で行ったオランダの農業政策
19世紀初頭オランダにおいては,本国でのベルギーの独立,植民地でのジャワ戦争などによって財政が悪化した。そこで1830年総督ファン=デン=ボスは,農地の約5分の1にコーヒー・さとうきび・藍 (あい) など指定作物を強制的に作付けさせ,公定価格で供出させて本国へ送り,莫大な利潤をあげた。現地では米の作付けが減少して飢饉 (ききん) や米価高騰が起こり,激しい反発にあって1870年に廃止された。このときの資本蓄積がオランダの産業革命を促進したとされる。

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世界大百科事典(旧版)内の強制栽培制度の言及

【インドネシア】より

…東南アジア地域の英蘭の勢力分野はその後1824年の英蘭協約により確定され,オランダはマレー半島を放棄する一方,スマトラ全域の支配権を掌握した。オランダは30年以降ファン・デン・ボス総督のもとで〈強制栽培制度〉を施行し,ジャワの土地と農民支配を本格的に開始した。圧制の典型として後世に伝えられるこの制度のもとで,農民は小説《マックス・ハーフェラール》(ムルタトゥーリ作。…

【オランダ領東インド】より

… 領土拡張と共に新しい商業用作物が相次いで導入され,なかでも1699年にジャワに移植されたコーヒー苗はバタビア周辺やプリアンガン地方で盛んに栽培された。会社は原住民首長から収穫物を買い上げる際に,一方的に価格を決めたが,義務供出制度と呼ばれるこの方式は,のちの強制栽培制度の先駆となった。コーヒーのほかに,サトウキビ,藍,茶,綿花,のちにはゴムなどが紹介された。…

【ファン・デン・ボス】より

…在職1830‐33年。彼の名は,1830年以来採用された強制栽培制度とともに広く知れわたっている。17歳でジャワのバタビア(現,ジャカルタ)に赴き,以後職業軍人としての道を歩んだ。…

【ムルタトゥーリ】より

…若いころから詩作に従事し,ロマン主義やルソーの思想に傾倒し,正義の実現を願望した。当時ネーデルラント王国はベルギーの独立(1830)による財政困難と経済的破綻を改善するため,ジャワ島に苛酷な強制栽培制度を導入し,巨利をあげていた。ダウエス・デッケルがみた植民地の現実は苛酷な搾取と住民の悲惨な窮乏であり,現地人支配者の頂点に立つオランダの植民地官吏の不正と横暴であった。…

※「強制栽培制度」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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