精選版 日本国語大辞典 「後光厳天皇」の意味・読み・例文・類語
ごこうごん‐てんのう ゴクヮウゴンテンワウ【後光厳天皇】
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(今谷明)
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北朝第4代の天皇(在位1352~71)。名は弥仁(いやひと)。法名光融。光厳天皇の第2皇子。母は陽禄門院(ようろくもんいん)秀子。南朝後村上(ごむらかみ)天皇の天下一統が破れ、足利(あしかが)氏がふたたび北朝を樹立することになり、その要請により、親王宣下(せんげ)もなく、また神器もなくして、広義門院(こうぎもんいん)(後伏見(ごふしみ)天皇の女御)の院宣で皇位についた。その在位中、南朝軍に攻められ、美濃(みの)(岐阜県)小島(こじま)、近江(おうみ)(滋賀県)武佐(むさ)などに難を避けた。その後南朝に幽居中の兄崇光(すこう)上皇が帰還し、後光厳天皇がその皇子に譲位したことから、兄弟の間に深刻な不和が生まれたが、足利氏の支持によって、以後この天皇の子孫が4代を相続した。天皇は父兄とともに書に優れ、その遺品は諸方に多く伝存する。応安(おうあん)7年正月29日崩御。37歳。御陵は京都の深草北陵。
[村田正志]
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北朝第4代の天皇。在位1352-71年。光厳天皇の皇子。名は弥仁。1351年(正平6・観応2)兄崇光天皇が南朝によって退位させられ,翌年吉野に幽閉された後,足利義詮に擁立されて践祚した。在位中は南朝軍の攻撃をしばしばうけ,近江や美濃に避難することもあった。譲位後は院政をしいた。陵所は京都市伏見区深草坊町にある(深草北陵)。
執筆者:飯倉 晴武
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1338.3.2~74.1.29
在位1352.8.17~71.3.23
光厳天皇の皇子。名は弥仁(いやひと)。母は陽禄門院秀子。1352年(文和元・正平7)北朝の光厳・光明・崇光(すこう)3上皇と直仁廃太子が南朝に拉致されたため,足利義詮(よしあきら)の要請により祖母広義門院の命で践祚(せんそ)。在位中はたびたび南朝軍の襲撃をうけて地方に遷幸。71年(応安4・建徳2)譲位し院政を行う。74年(応安7・文中3)落飾(らくしょく),法名光融。柳原殿で没した。
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