御内人(読み)みうちびと

改訂新版 世界大百科事典 「御内人」の意味・わかりやすい解説

御内人 (みうちびと)

鎌倉時代の北条氏の直属の家人。得宗被官御内方ともいう。もともとは貴人の邸内に伺候する人の意から直属の家臣をさすが,一般には将軍に仕える御家人と対比して,得宗被官をこう呼ぶ。御内人は将軍の陪臣であり,身分も低かったが,北条氏の政治地位の上昇とともに,北条氏の使者や代官となって重要な政治活動を行うようになった。さらに北条氏の蓄積した膨大な所領を管理して経済力を身につけ,鎌倉後期には一大勢力を築いた。御内人の本格的進出は北条泰時の代に始まり,泰時の邸宅内には御内人の宅が置かれて,その中から家令として尾藤景綱が任ぜられた。また泰時の所領を管理する得宗公文所なる機構が設けられて,御内人がその運営にあたった。この後,北条氏の家督である得宗とその被官とは強いきずなで結ばれ,得宗邸には得宗を中心に一族,御内人が集まって寄合(よりあい)という私的な会合を開き,そこで幕府の事実上の政治的決定を行った。ここに御内人の地位は一躍上昇し,御内人筆頭の得宗家の家令は内管領(うちかんれい)と呼ばれて強力な権限を握り,評定衆以下の幕府の人事をも左右した。このため御家人勢力との対立をおこし,1285年(弘安8)には御家人勢力を代弁する安達泰盛を内管領平頼綱が滅ぼす弘安合戦霜月騒動)といわれる事件がおきている。御内人と御家人との対立はこの後の幕府政治に大きな影をおとした。すなわち六波羅探題においても探題腹心の御内人と,探題指揮下の西国御家人たる在京人との間で,諸国では多くの国の守護職を独占する北条氏の代官(目代)の御内人と,国内の御家人との間で対立が生じ,さらに御家人武士団の内部に御内人に転ずる者があらわれ,対立は激化した。幕府の滅亡もこの対立によるところが大きく,北条氏に次ぐ最有力御家人の足利高(尊)氏が幕府に背反したことが決定的となり,御家人勢力に攻められて幕府も六波羅も滅亡している。北条氏に忠誠を尽くし,結束力を誇った御内人もそのときに北条氏に殉じて滅んだ。
外様(とざま)
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百科事典マイペディア 「御内人」の意味・わかりやすい解説

御内人【みうちびと】

鎌倉時代の北条氏の直属家人。将軍に仕える御家人に対比して得宗(とくそう)被官を呼ぶ。3代執権北条泰時(やすとき)の時,邸内に御内人の宅が置かれ,本格的に進出。身分は低かったが,北条氏の使者や代官となり政治活動を行い,また膨大な北条氏の所領を管理して経済力をつけた。各地の御家人との対立が深刻化,御家人層の離反を招き幕府崩壊を早めた。得宗と強い主従関係で結ばれ,北条氏に殉じて滅んだ。→内管領(うちかんれい)
→関連項目平頼綱二月騒動

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「御内人」の意味・わかりやすい解説

御内人
みうちびと

「みうちにん」とも読み、学術概念としては「得宗被官(とくそうひかん)」という。御内の被官の意。北条家本家(得宗家)の家人をさす。また北条氏一族の被官も含め北条氏勢力総体をさす場合もある。寺社勢力から非法をした御家人の引渡しを要求された六波羅探題が、かわりに自分の御内人を差し出したという事例にみられるように、御家人に対する用語。将軍を頂点とする秩序からは、北条氏の陪臣(ばいしん)にすぎないが、得宗勢力の伸張に伴って御家人を凌(しの)ぐ勢力となった。鎌倉中期以後、北条氏の庇護を求めて、所領を寄進して御内人になる御家人も多かった。御内人となったために、父から不孝の子として勘当される例もあり、武家の一族結合は大きく動揺した。全国に展開する得宗領の給主に任命されたため、商業活動に従事するものが多い。内管領(ないかんれい)の長崎氏、尾藤(びとう)氏や安東(あんどう)氏、諏訪(すわ)氏、広沢氏などはとくに有力だった。

[海津一朗]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「御内人」の解説

御内人
みうちびと

中世,主として武家では代々奉仕する家臣を御内,もしくは御内人といった。鎌倉中・後期には,もっぱら幕府執権北条氏の家督(得宗(とくそう))に仕える被官・家人(けにん)をさした。得宗御内・得宗被官ともいい,一般の御家人は外様(とざま)とよばれる。御内人は将軍からいえば陪臣だが,得宗の権力強化とともに勢力をのばし,鎌倉後期には幕府政治も左右した。得宗家の家政機関である公文所(くもんじょ)に出仕し,また全国各地の得宗領に派遣されて管理にあたった。その筆頭者は内管領(ないかんれい)とよばれる。執権が侍所別当を兼ねて以来,御内人はその実質的長官である所司となり,さらに幕府の実質的な最高意思決定会議である寄合(よりあい)にも参加した。霜月騒動(1285)で安達泰盛を滅ぼした平頼綱,幕府最末期に権勢をふるった長崎高資(たかすけ)などが著名。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「御内人」の意味・わかりやすい解説

御内人
みうちびと

鎌倉時代,執権北条氏宗家 (→得宗〈とくそう〉) に仕えた武士。御内とは得宗をさす。北条氏の本領である伊豆の名主層出身の者,北条氏の発展に伴ってその支配を受けた諸国の出身者が仕えた。次第に北条氏の権威を背景に政治の中枢に入り込み,隠然たる政治勢力をもち,得宗専制の基盤となった。特に得宗家の家宰は内管領と呼ばれ,侍所頭人となり,また常に寄合いの席にのぞむなどその権威は著しく,ときに得宗をしのぐものがあった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「御内人」の解説

御内人
みうちびと

鎌倉後期,幕府の執権北条氏の得宗家(惣領家)の家臣
御内方 (みうちかた) ・得宗被官 (とくそうひかん) ・御内之仁ともいう。長崎氏らはその代表である。一般の御家人を外様といい,御内人と外様との対立が霜月騒動をおこした。

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世界大百科事典(旧版)内の御内人の言及

【鎌倉幕府】より

…執権は複数となり(1名がいわゆる連署),評定衆が置かれ,32年(貞永1)には最初の武家法典である《御成敗式目》が制定され,裁判の公正が図られた。 泰時の孫の時頼のころから,北条氏の家督である得宗と,その家臣である御内人(みうちびと)による得宗専制政治が始まった。得宗で執権である時頼は,46年(寛元4)陰謀を理由に前将軍九条頼経を京都に追い,当時京都で権勢を振るっていた頼経の父の前摂政道家を失脚させただけでなく,これを契機に朝廷の政務への干渉を強め,〈治天の君〉(政治の実権を握る上皇,ときには天皇)や天皇を選定する権限までも掌握した。…

【侍所】より

…それ以降,北条氏得宗(当主)と執権の地位が分離すると,侍所別当の地位には執権がつくが,侍所の実権は頭人(とうにん)に移った。頭人には御内(みうち)人と呼ばれる得宗被官が任ぜられ,末期には御内筆頭である内管領がこれに任じ,得宗に直結して侍所を掌握した。こうして侍所構成員は得宗被官が実権を有したが,検断沙汰等の実務に当たるのは奉行人と呼ばれる一般御家人中の吏僚で,外様であった。…

【直臣】より

…陪臣に対する。鎌倉時代,北条氏得宗家の被官は御内人(みうちびと)と呼ばれ,得宗の直臣ではあるが,将軍家からすれば陪臣となる。これに対して一般御家人は外様御家人とよばれ疎外されたが,将軍家からみれば直臣である。…

【得宗】より

…得宗領在地は,初期には一般御家人が代官として支配することもあったが,やがて在地の豪族が代官に起用されることが多くなった。これを得宗被官または御内人(みうちびと),御内之仁という。その中でも尾藤,万年,関,金窪,南条,平,長崎などは,代官になっても在地土豪を又代官に任じて支配にあたらせ,みずからは在鎌倉の得宗に近侍して,一般御家人の外様に対し御内(みうち)と呼ばれ,一定の政治勢力になっていた。…

【外様】より

…中世,主として武家において譜代関係にない家臣の呼称。鎌倉時代,幕府の実権を握った北条氏得宗家の被官が御内人(みうちびと)と呼ばれたのに対して,将軍家に直属する一般御家人は外様御家人と呼ばれた。鎌倉時代後期には御内人と外様御家人の対立が深刻となり,前者の代表である平頼綱と後者の代表である安達泰盛が衝突した事変は,1285年(弘安8)の弘安合戦として著名である。…

※「御内人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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