徳川家治(読み)とくがわいえはる

精選版 日本国語大辞典 「徳川家治」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐いえはる【徳川家治】

江戸幕府第一〇代将軍。家重の長男。幼名竹千代。宝暦一〇年(一七六〇)将軍となる。治政は老中田沼意次が実権を握り積極的な重商主義政策を行なった。産業文化が興隆した反面、賄賂の横行など風紀は乱れた。元文二~天明六年(一七三七‐八六

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デジタル大辞泉 「徳川家治」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐いえはる〔トクがはいへはる〕【徳川家治】

[1737~1786]江戸幕府第10代将軍。在職1760~1786。家重の長男。田沼意次たぬまおきつぐが政治の実権を握り、商品経済の発展をみたが、他方、綱紀の退廃を招いた。

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百科事典マイペディア 「徳川家治」の意味・わかりやすい解説

徳川家治【とくがわいえはる】

江戸幕府10代将軍(在位1760年―1786年)。9代家重の子。幼名竹千代。諡号(しごう)浚明院。側用人(そばようにん)田沼意次が実権を握っていたが,積極・進取の気風に溢れた時代であった。しかし天災による慢性的凶作(天明の飢饉)に農村が疲弊し,体制の危機が進行した。
→関連項目日光社参沼津藩

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳川家治」の意味・わかりやすい解説

徳川家治
とくがわいえはる
(1737―1786)

江戸幕府10代将軍(在位1760~86)。幼名竹千代。9代将軍家重(いえしげ)の長子。母は梅渓(うめたに)氏お幸(こう)。元文(げんぶん)2年5月22日生まれ。1760年(宝暦10)9月に将軍就任。祖父吉宗(よしむね)は家治の幼少時には、不肖の家重にかわるものとしてその成長に期待をかけていたが、長じては凡庸となり、老中たちの政治、とくに後半は田沼意次(たぬまおきつぐ)の政治に埋没していた。治政中は宝暦(ほうれき)~天明(てんめい)期(1751~89)の幕藩制転換期にあたり、しかも明和(めいわ)の江戸大火、天明の浅間山大噴火、大飢饉(だいききん)と百姓一揆(ひゃくしょういっき)、都市打毀(うちこわし)の大高揚と社会不安の激化した時期とぶつかっていた。天明6年8月25日(公表では9月8日)病死、法号は浚明院(しゅんめいいん)。贈正一位太政大臣(だいじょうだいじん)。上野の東叡山(とうえいざん)寛永寺(かんえいじ)に葬られる。

山田忠雄


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「徳川家治」の解説

徳川家治
とくがわいえはる

1737.5.22~86.8.25

江戸幕府10代将軍(在職1760.9.2~86.9.8)。9代家重の長男。母は側室至心院。幼名竹千代。法号浚明院。祖父吉宗の薫陶をうける。1760年(宝暦10)将軍職を継ぎ,父家重の遺言で田沼意次(おきつぐ)を重用。田沼によって情報を統制され政治的活動が制限されたため,画業に専念するが,傑作には「政事之暇(せいじのひま)」の落款を押したという。生前に実子を失い,田沼の意見で一橋家から治済(はるさだ)の長男家斉(いえなり)を迎えた。86年(天明6)8月初めから水腫で療養中だったが,16日田沼の推薦した町医者の調合薬を服用したところ25日に急死したといわれる。家治の死は反田沼派によって田沼失脚に利用され,田沼は26日辞職を願い,27日老中を罷免。発喪は9月8日。この後10カ月の権力闘争をへて87年6月,松平定信(さだのぶ)が老中に就任。

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改訂新版 世界大百科事典 「徳川家治」の意味・わかりやすい解説

徳川家治 (とくがわいえはる)
生没年:1737-86(元文2-天明6)

江戸幕府10代将軍。9代将軍家重の長子。幼名竹千代。幼少から明敏で祖父吉宗に期待され,学芸に長じ囲碁,将棋も巧みだったという。1760年(宝暦10)父の譲りを受け将軍となる。86年に没するまで27年間の治世は,側用人田沼意次が実権をにぎり,一面新時代への進取・積極的気風もあったが,他面天災も加わり,政治の腐敗,社会の退廃・疲弊など体制の危機が進行する時代であった。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「徳川家治」の解説

徳川家治

没年:天明6.8.25(1786.9.17)
生年:元文2.5.22(1737.6.20)
江戸幕府10代将軍。9代将軍家重の長子。生母は梅渓氏の娘お幸(至心院)。幼名竹千代。江戸城西丸で生まれ,祖父吉宗の膝下で養育された。幼時より文武の才に恵まれ,周囲の期待を集めた。宝暦10(1760)年5月継統,9月将軍宣下。26年間在位したが,この間政治の実権は田沼意次に握られ,その能力を発揮することはなかった。余暇を趣味の世界に没頭,絵画が得意で,よく自作の絵を諸臣に与えている。また将棋は奥義を極め,『将棋攷格』という詰め将棋の書を著している。世嗣家基に先立たれるなど不幸が続き,反田沼派の策謀でその死も直ちに公表されず,田沼失脚後,9月8日に発喪された。葬地は寛永寺。浚明院と諡された。<参考文献>「浚明院殿御実紀附録」(『徳川実紀』10編)

(松尾美恵子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳川家治」の意味・わかりやすい解説

徳川家治
とくがわいえはる

[生]元文2(1737).5.22. 江戸
[没]天明6(1786).8.25. 江戸
江戸幕府 10代将軍 (在職 1760~86) 。家重の長男。母は梅渓通条の娘。幼名は竹千代。院号は浚明院。宝暦 10 (60) 年9月2日将軍宣下。田沼意次が重用され,いわゆる「田沼時代」が出現。2男2女が早世して世子がなく,一橋家から家斉を養子とした。死後,田沼意次罷免後の天明6 (86) 年9月8日に喪を発した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳川家治」の解説

徳川家治 とくがわ-いえはる

1737-1786 江戸幕府10代将軍。在職1760-86。
元文2年5月22日生まれ。徳川家重(いえしげ)の長男。母はお幸の方(至心院)。宝暦10年将軍職をつぐ。田沼意次(おきつぐ)を側用人(そばようにん),ついで老中に登用し,積極的な産業振興策をとるが,賄賂(わいろ)政治の不評もかった。天明6年8月25日死去(発喪は9月8日)。50歳。幼名は竹千代。法号は浚明院。

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旺文社日本史事典 三訂版 「徳川家治」の解説

徳川家治
とくがわいえはる

1737〜86
江戸幕府10代将軍(在職1760〜86)
9代将軍家重の長男。田沼意次 (おきつぐ) を側用人に登用,さらに老中に進めた。このため田沼意次による積極的な政治が行われたので,家治の治世を田沼時代と呼ぶ。

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367日誕生日大事典 「徳川家治」の解説

徳川家治 (とくがわいえはる)

生年月日:1737年5月22日
江戸時代中期の江戸幕府第10代の将軍
1786年没

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世界大百科事典(旧版)内の徳川家治の言及

【日光社参】より

…江戸時代,日光東照宮に参詣すること。社参者には,日光例幣使,将軍,大名,旗本,御家人,一般の武士や農工商の庶民など,さまざまの身分階層にわたったが,御宮(東照宮)と大猷院(家光)御霊屋(おたまや)に拝礼を許されるのは旗本以上に限られ,御家人以下の身分の者は拝見が許されただけであった。江戸時代を通じて16度行われた将軍の社参は,4月17日(家康命日)の法要に集中しているが,莫大な費用と人手をともなうので,4代徳川家綱以降は8代吉宗,10代家治,12代家慶に各1回が記録されているにすぎない。…

※「徳川家治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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