志賀島(読み)シカノシマ

デジタル大辞泉 「志賀島」の意味・読み・例文・類語

しか‐の‐しま【志賀島】

福岡県北西部、海ノ中道にある陸繋島りくけいとう。古来、大陸交通の要地。天明4年(1784)に「漢委奴国王かんのわのなのこくおう」の金印を出土。→漢倭奴国王印
岡松和夫短編小説。昭和50年(1975)発表。同年、第74回芥川賞受賞。

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精選版 日本国語大辞典 「志賀島」の意味・読み・例文・類語

しか‐の‐しま【志賀島】

(「筑前風土記」によれば「近島(ちかしま)」の変化したもの) 福岡市北部、博多湾口の島。現在は海ノ中道と陸続きとなる。古来、大陸との交通の要地にあたり、天明四年(一七八四)に「漢委奴(かんのわのなの)国王」の金印が出土した。蒙古首切塚、志賀海神社など史跡が多い。景勝地。しがしま。

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日本歴史地名大系 「志賀島」の解説

志賀島
しかのしま

博多湾口に位置し、陸から延びた海の中道うみのなかみちとつながり博多湾と玄界灘とを区切る陸繋島。面積約五・八平方キロ、最高所は標高約一六八・六メートル。玄海国定公園に含まれる。「漢委奴国王」の金印が発見されたことでも有名。「和名抄」所載の糟屋かすや志珂しか郷を当地に比定する説が有力である。「釈日本紀」所引の「筑前国風土記」逸文には、神功皇后の船が「資珂嶋」に泊まったある夜、火を求めにやった従者の小浜が「此の嶋と打昇の浜と、近く相連接けり」と報告したので当島をちか島といい、今は転訛して資珂しか島というとする地名起源説話がみえる。この記事にみえるもう一人の従者大浜については同一人物かは不明だが、「日本書紀」応神天皇三年一一月条に阿曇連の祖大浜宿禰を海人の宰に任命するという記事がみえる。阿曇氏は海部を統轄した伴造として知られるが、元来の本拠地は志賀島から糟屋郡阿曇あずみ(和名抄)にかけての地域と考えられ(摂津国安曇江説もあり)、「先代旧事本紀」(陰陽本紀)には海神である底津少童命・中津少童命・表津少童命の三神は阿曇連らが祀る「筑紫斯香神」であるという記事がみえる。「延喜式」神名帳に載る「志加ウミノ神社三座」がこれにあたる。

「志賀の海人」「志賀の浦」は「漁火」「塩焼く」「藻刈る」など生業にかかわる言葉とともに「万葉集」にも多く歌われており、とくに筑前国志賀白水郎歌一〇首(巻一六)は、神亀年中(七二四―七二九)滓屋かすや郡志賀村の白水郎荒雄が乗込んだ対馬送粮船が沈没し、荒雄の妻子の悲しみを詠んだ歌である。「日本書紀」神功皇后摂政前紀(仲哀天皇九年九月一〇日条)にみえる「磯鹿の海人」は、神功皇后の命で「西海」に国を捜し求めて派遣されており、水産業・製塩業だけでなく航海技術にも長じていた。

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改訂新版 世界大百科事典 「志賀島」の意味・わかりやすい解説

志賀島 (しかのしま)

福岡県北西部,玄界灘から博多湾を分ける海ノ中道(うみのなかみち)の先端にある陸繫(りくけい)島。海図では〈しかしま〉と読む。周囲約11km,面積約5km2。もと糟屋郡志賀町の西半を占めていたが,1971年福岡市に編入された。海ノ中道は東西約12km,幅は最大2km,最狭部0.5km,松原の多い砂丘をなし,東に雁ノ巣(がんのす)の砂嘴,西に西戸崎(さいとざき)があり,後者はJR香椎線の終点。中道の先端は満潮時に一部水没するので満切(道切)(みちきれ)と呼ぶが,1931年の架橋で完全に志賀島と陸路連絡された。島は,おもに花コウ岩からなる南北に長い楕円形の山地(最高169m)で,西側緩斜面には畑,水田が開け,対馬海流による温暖な気候を利用してビワやイチゴなどの早期出荷も行う。半農半漁の志賀島,勝馬,弘(ひろ)の3集落がある。倭奴国王印(わのなのこくおういん)(金印)の出土地として有名で,海上守護神で朝鮮鐘(重要文化財)など文化財の多い志賀海(しかうみ)神社,元寇(げんこう)ゆかりの蒙古塚,火焰塚など史跡に富む。また玄海国定公園に属し,海水浴場国民休暇村などがある。福岡市街からバス,博多港から船の便がある。
執筆者:

古代の志賀島は《古事記》《日本書紀》《万葉集》《風土記》にみられる〈志賀白水郎(しかのあま)〉拠点であり,また博多湾口を扼す位置にあって,海上交通などで重要な位置を占めていた。志賀海神社の祭神は阿曇系の海人の祭るいわゆる綿津見三神(底津綿津見神・中津綿津見神・表(うわ)津綿津見神)である。1784年(天明4)に島で発見された金印は後漢の光武帝が57年(建武中元2)に奴国の使者にさずけたものとされている。
執筆者: 1192年(建久3)以前に長講堂領の荘園となるが,立荘の事情や田数は不明。本家職は後白河法皇から皇女宣陽門院を経て,のちに持明院統の伝領となった。年貢は米100石,公事として正月に御簾,御座,砂,3月に砂,5月に移花,砂,8月に布,月ごとに御菜を貢進し,また5月上旬門兵士3人を負担した。博多湾の突端にあるので,弘安の役では蒙古軍に占領され,肥前の鷹島とならぶ主戦場となった。鎮西管領一色範氏の兵粮料所にあてられたため家人によって濫妨(らんぼう)をうけた。足利直義や義詮が同島雑掌に返付を命じたが,武士による押領は続き,1407年(応永14)には領家長講堂の支配は不知行となった。15世紀中ごろ,大内氏の北九州進出によって,大内盛見は島の倭寇を配下に収め,大内持世は39年(永享11)志賀海神社を再興しており,大内氏の領するところとなった。80年(文明12)宗祇の大宰府,博多,志賀島への筑紫紀行大内政弘の助力によるところ大であった。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「志賀島」の意味・わかりやすい解説

志賀島
しかのしま

福岡県北西部、玄界灘(げんかいなだ)から博多(はかた)湾を限る海の中道(うみのなかみち)先端の陸繋島(りくけいとう)で、福岡市東区に属する。周囲約11キロメートル、面積5.72平方キロメートルで、やや南北に長い楕円(だえん)形をなす。最高標高169メートル。おもに花崗閃緑(かこうせんりょく)岩からなる山地状の島で、東側は急崖(きゅうがい)が発達している。海の中道先端の砂嘴(さし)は満潮時には水没するため、志賀島橋で結ばれている。架橋付近に漁業集落の志賀、北部に農業集落の勝馬(かつま)、西岸に半農半漁集落の弘(ひろ)などの集落がある。産業は、北西緩斜面において対馬(つしま)暖流による温暖な気候を利用してビワ、ミカン、イチゴ、野菜の促成栽培が行われ、玄界灘の一本釣り、小型底引網などの漁業も盛んである。玄海国定公園に属し、1784年(天明4)農民が発見した金印「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」(国宝)の出土地である金印公園や、元寇(げんこう)古戦場跡の蒙古(もうこ)塚、海の守護神として知られる志賀海神社(しかのうみじんじゃ)などの史跡に富む景勝地。島内には休暇村をはじめ国民宿舎、展望台、海水浴場などの施設も整備され、夏は海水浴客、春・秋はハイキング客でにぎわう。古くは『和名抄(わみょうしょう)』に糟屋(かすや)郡志珂郷(しかごう)と記載され、『万葉集』以降歌枕(うたまくら)としても広く知られ、島内には万葉歌碑が多く建っている。JR香椎(かしい)線終点西戸崎(さいとざき)駅からバスが、博多港から市営渡船が通じている。人口1438(2020)。

[石黒正紀]

『筑紫豊著『金印のふるさと志賀島物語』(1980・文献出版)』


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百科事典マイペディア 「志賀島」の意味・わかりやすい解説

志賀島【しかのしま】

福岡県福岡市東区,博多湾口にある海ノ中道の陸繋(りくけい)島。周囲約11km,最高点169m。玄海国定公園に属する景勝地で,国民休暇村がある。元寇の古戦場(文永・弘安の役)であり,金印(漢委奴(かんのわのなの)国王印)出土地,志賀海(しかのうみ)神社など史跡が多い。福岡市内からバス,船便がある。
→関連項目海ノ中道玄界灘東[区]福岡[県]福岡[市]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「志賀島」の意味・わかりやすい解説

志賀島
しかのしま

福岡県北西部,博多湾口にあり,海ノ中道によって陸繋島化した島。福岡市東区に属する。周囲 11km。花崗閃緑岩から成り,最高点は弥五郎山 (176m) 。東岸は急斜面,西岸は緩斜面である。漁業,果樹・野菜栽培が行われる。古くから大陸との交通上重要な役割を果し,倭奴国王印出土 (天明4〈1784〉) の地として有名。玄海国定公園に属し,志賀海 (しかうみ) 神社,蒙古塚などのほか,国民休暇村,水族館,釣宿などのレクリエーション設備もある。志賀海神社社宝の朝鮮鐘は重要文化財。面積 5.78km2。人口 2601 (1996) 。

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旺文社日本史事典 三訂版 「志賀島」の解説

志賀島
しかのしま

福岡市東区志賀島,博多湾の東側突端にある島
『万葉集』にもよまれた景勝地。1784年百姓甚兵衛によって島の海辺に近い田の中から「漢委奴国王」の金印が発掘された。

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事典・日本の観光資源 「志賀島」の解説

志賀島

(福岡県福岡市東区)
福岡県文化百選 歴史散歩編」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の志賀島の言及

【志賀島】より

…海ノ中道は東西約12km,幅は最大2km,最狭部0.5km,松原の多い砂丘をなし,東に雁ノ巣(がんのす)の砂嘴,西に西戸崎(さいとざき)があり,後者は国鉄香椎線の終点。中道の先端は満潮時に一部水没するので満切(道切)(みちきれ)とよぶが,1931年の架橋で完全に志賀島と陸路連絡された。島は,おもに花コウ岩からなる南北に長い楕円形の山地(最高169m)で,西側緩斜面には畑,水田が開け,対馬海流による温暖な気候を利用してビワやイチゴなどの早期出荷も行う。…

※「志賀島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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