恤救規則(読み)じゅっきゅうきそく

改訂新版 世界大百科事典 「恤救規則」の意味・わかりやすい解説

恤救規則 (じゅっきゅうきそく)

1874年に出された太政官達で,1932年の救護法施行まで,日本の救貧制度の中心として存続した。明治新政権はそれまで幕府や藩などで実施していた救貧政策を,中央政府の絶対主義的な強力な統制下に置くこととし,地方の専断を禁じささいな点まで中央政府の承認を要することとしたが,恤救規則の内容は,旧来の幕藩体制的救済理念に基づくもので,文字どおり慈恵的なものであった。まず,〈済貧恤救ハ人民相互ノ情誼ニ因〉るものとして,共同体的性格による救済をその前提として強く打ち出している。その対象は廃疾老齢(70歳以上),児童(13歳以下),傷病で労働不能,扶養者を欠く,などの者に厳しく限定していた。給付は米の石斗という容積で表しながらも,該地における前月の下米相場をもって石代を下げ渡すこととして現金給付の形をとっていた。地域社会の相互扶助を救済原則とし,対象,程度,方法などもきわめて厳しく限定されたものであり,近代社会の公的扶助の基本原則とはほど遠いものであった。その救済人員もきわめて少なく,月平均にして1897年ごろに2万人内外,1931年に約3万人という程度であった。

 資本主義進展によって恤救規則の限界が明らかになり,二つの面での対応が見られた。一つは地方自治体独自の対応であり,もう一つは新しく進んだ方向への法改正であった。前者としては,それ以前の藩ごとの独自の動きから引き続いて,各地で必要に応じて対策がとられていった。後者の面では,自由主義原則に基づいて稼働能力ある,いわゆる有能貧民を制裁的に労役場に閉じ込め,対象を無能力者救済に制限しようとしたイギリスの1834年改正救貧法等を参考にして,恤救規則の改正がしばしば提唱された。はやくも90年の第1回帝国議会に〈窮民救助法案〉,ついで97年第10回帝国議会に〈賑恤法案〉および〈救貧税法案〉(これらは当時内務省衛生局長後藤新平の構想に発するといわれる),さらに1902年第16回帝国議会に〈救貧法案〉などの提案が行われたが,いずれも成立に至らなかった。この改正の方向が結実して救護法として公布(1929),施行(1932)されるまでには,第1次世界大戦後の経済混乱と民本主義の台頭を待たねばならなかった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「恤救規則」の意味・わかりやすい解説

恤救規則
じゅっきゅうきそく

1874年(明治7)に制定された恤救規則は、その前文で救済は本来人民相互の情誼(じょうぎ)によって行うべきものであるとされ、それが適わない、労働能力を欠き且つ無告の窮民であることを条件として国家が救済を行うことを規定したものである。近代国家の救貧であるが、自治体の義務救助主義にもとづくイギリスの救貧法などとは全く異なる性格をもつ。とくに、前近代以来の支配者による慈恵的救済を継承し、極めて制限主義的な内容である点が最大の特徴である。対象者は70歳以上の廃疾者・老衰者・長病者、13歳以下の孤児など、鰥寡(かんか)孤独の窮民で、支給は高齢者には年間1石8斗分、病者には男1日米3合分、女2合分、子どもには年間7斗分の下米(げまい)換算の現金給付である。また国費救済が基本となる官治主義をとった。この規則は1929年(昭和4)制定の救護法まで50年以上も継続し、結果として公的救済を特別視する傾向をもたらすとともに、その権利化への可能性を抑制することとなった。

[池本美和子]

『小川政亮著「恤救規則の成立」(福島正夫編『戸籍制度と「家」制度』所収・1959・東京大学出版)』『池田敬正著『日本社会福祉史』(1986・法律文化社)』

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百科事典マイペディア 「恤救規則」の意味・わかりやすい解説

恤救規則【じゅっきゅうきそく】

1874年に明治政府が窮民救済を目的として太政官達162号として布達した規則で,済貧恤救は人民相互の情誼によるべしとし,それで救済できない貧困者や70歳以上の労働不能の者,障害者,病人,13歳以下の児童等に一定の米代を支給することを定めた,慈恵的制限扶助的な救貧制度で,1931年の救護法の施行によって廃止された。

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世界大百科事典(旧版)内の恤救規則の言及

【公的扶助】より

…イギリスの1601年エリザベス救貧法は全国的に制度化された公的扶助の嚆矢(こうし)であるといってよく,救貧制度として幾度かの改正を経て,1948年国民扶助法に至り,前述の狭義の公的扶助が確立した,といってよい。日本についていえば,1874年恤救規則から1929年(施行は1932)の救護法を経て,戦後の生活保護法に至る過程である。 公的扶助という用語が日本に定着したのは,第2次大戦後の占領軍公衆衛生福祉局の使用による。…

【社会福祉】より

…しかしながら,日本では資本主義の発展が遅れ,社会が長く共同体的な要素を包摂しつづけたこともあって,第2次大戦以前における発展は著しい立遅れを示した。そのことはとくに公的救済の側面についていえることで,1874年に極度に制限的な救貧規程である恤救規則(じゆつきゆうきそく)が制定されてから1929年に公的扶助義務主義をとる救護法が成立するまで,公費による救済は小規模なものにとどまり,民間の救済に依存するところが大きかった。その後,第2次大戦前夜になると母子保護法の制定(1937)や保健所法(1937)による保健サービスの導入など施策の拡大がみられたが,それも健民健兵政策の一環として実現したものであった。…

【社会保障】より


【日本の社会保障】
 日本の社会保障が体系化され,近代的制度として確立されたのは第2次大戦後のことであるが,現行の公的扶助や社会保険の原型ともいうべき制度はすでに戦前に誕生していた。明治初期に生まれた恤救(じゆつきゆう)規則(1874)は,イギリスの救貧法と同じように極貧かつ病弱老衰の独身者を対象にした劣悪な慈恵的救貧制度であった。1929年にこれを全面的に改正した救護法が制定されていちおう近代的改装を施したが,慈恵主義的思想には基本的変化はなかった。…

【生活保護】より

…生活保護法(1950公布)に基づく生活困窮者に対する最低生活保障制度。日本の生活困窮者に対する救済制度は大宝律令(701)までさかのぼりうるが,近代の公的扶助制度の端緒としては明治政府が1874年に制定した恤救(じゆつきゆう)規則が挙げられる。しかしこの規則は救済の前提に家族扶養や隣保相扶を置き,国や地方公共団体は補充的に救済するという制限的な内容であり,第1次世界大戦後の深刻な経済不況の影響を受けて発生した大量の生活困窮者を救済できるものではなかった。…

※「恤救規則」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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