恵美押勝の乱(読み)えみのおしかつのらん

改訂新版 世界大百科事典 「恵美押勝の乱」の意味・わかりやすい解説

恵美押勝の乱 (えみのおしかつのらん)

奈良時代に恵美押勝藤原仲麻呂)が起こした反乱橘奈良麻呂の変未然に鎮圧した藤原仲麻呂は,早世した長男真従の妻であった粟田諸姉をめあわせた大炊王淳仁天皇として擁立し,またみずからを恵美押勝と称すること,私的に銭貨を鋳造し出挙(すいこ)を行うこと,および恵美家の印を任意に公的に用いることを許された。そして太保(右大臣),ついで太師(太政大臣)に進み,位階もついには正一位に達し,その間中国の唐を模倣したさまざまな重要施策を実行に移した。しかし,紫微中台(しびちゆうだい)の長官としてとくに緊密な関係にあった叔母の光明皇太后が760年(天平宝字4)に没したことが契機となって,勢力が下降しはじめ,反対派との対立が激化してきた。すなわち,保良宮に滞在中,看病に当たった道鏡を孝謙上皇寵愛したのを淳仁天皇が批判したことから,両者の間が不和となり,決裂状態のまま平城京に帰って,淳仁天皇は平城宮中宮院に,孝謙上皇は出家して法華寺に入り,皇権も国家の大事と賞罰は上皇が掌握し,天皇はただ小事と常祀を行うだけとなったが,その背後には仲麻呂=淳仁派に対する道鏡ら反仲麻呂=孝謙派の抗争が伏在していた。仲麻呂はこれに対して子息の真先・久須麻呂・朝獦(あさかり)や女婿の藤原御楯を参議に任じ,また衛府の要職越前・美濃など関国の国司に一族与党を配して態勢を固めたが,そのころまた藤原良継,佐伯今毛人,石上宅嗣,大伴家持ら反仲麻呂派によるクーデタ計画が発覚した(763)。この事件は良継が罪を一身に負って一応おさまったが,今毛人,宅嗣,家持も左遷された。しかし,仲麻呂派も僧綱では少僧都慈訓,慶俊が解任されて,道鏡がこれに代わり,またそれまで絶対的な支配下にあった造東大寺司にも反対派の勢力がしだいに浸透してきて,形勢は悪化し,さらに妻の袁比良(おひら)についで,石川年足や御楯など有力な支援者が死に,飢饉・疫病に加えて物価が高騰するなど社会不安も高まってきた。

 かくして764年9月,仲麻呂は退勢を一気に挽回すべく反乱を企図し,みずから〈都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使〉という地位につき,それら配下の諸国から多くの手兵を都に集めようとした。しかし,反乱計画は高丘比良麻呂や大津大浦らの密告によって孝謙上皇の知るところとなり,上皇は先手を打って淳仁天皇のもとにあった鈴印を回収しようとした。中宮院にあって勅旨の伝宣に当たっていた久須麻呂はこれを邀撃(ようげき)し,いちどは鈴印を奪回したが,授刀衛の坂上苅田麻呂らに射殺された。かくて鈴印の争奪戦に端を発し,仲麻呂は公然と反旗を掲げることとなったため,官位・氏姓を剝奪され,封戸・雑物も没収されたうえ,不意をうたれて淳仁天皇と行動をともにできなくなったので,氷上塩焼(塩焼王)を天皇に擁立し,永年拠点としてきた近江国の国衙に拠って,みずからを正統と称し,孝謙上皇方に対抗しようとした。しかし,田原道を先回りした追討軍佐伯伊多智に妨げられて勢多(瀬田)橋を渡ることができず,やむなく湖西を越前国に逃入しようとしたが,この計画も伊多智らが先に越前に入って国守であった子息辛加知(しかち)を殺し,愛発関(あらちのせき)を閉じたため,果たさず,後退して高島郡三尾埼に至ったところを,藤原蔵下麻呂(くらじまろ)らの追討軍主力に挟撃され,勝野鬼江から湖上に逃れようとしたが,石村石楯(いわれのいわたて)に捕らえられ,一族与党34人とともに湖浜で斬首された。乱後,淳仁天皇は廃位され,淡路に幽閉されたが,765年(天平神護1)脱走を企てて怪死し,新しく道鏡が大臣禅師に任ぜられて政権を掌握した。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「恵美押勝の乱」の解説

恵美押勝の乱
えみのおしかつのらん

奈良中期の反乱。光明皇太后の死で後楯を失った恵美押勝(藤原仲麻呂)の権力基盤が弱体化すると,孝謙太上天皇の発言力がしだいに強まり,その寵愛を得た道鏡(どうきょう)が台頭。762年(天平宝字6)6月,孝謙と押勝のたてた淳仁天皇との不仲が表面化し,孝謙は皇権分離の宣命(せんみょう)をだして天下大事・賞罰の執行を宣言した。12月,押勝は子弟を参議に任じて退勢の挽回を図るが,官人層の反発を招き失敗。764年9月2日,押勝は都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に就任して軍事権の掌握をもくろむが,11日に密告により計画が露見して機先を制され,中宮院の鈴印を孝謙方に奪われた。越前への敗走もはたせず,近江国で斬死。孝謙は淳仁を廃して淡路国に幽閉し,称徳天皇として重祚(ちょうそ)した。

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百科事典マイペディア 「恵美押勝の乱」の意味・わかりやすい解説

恵美押勝の乱【えみのおしかつのらん】

藤原仲麻呂

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旺文社日本史事典 三訂版 「恵美押勝の乱」の解説

恵美押勝の乱
えみのおしかつのらん

藤原仲麻呂の乱

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世界大百科事典(旧版)内の恵美押勝の乱の言及

【奈良時代】より

…しかしこれにも失敗し,結局追討軍のため湖西の三尾埼付近で挟撃され,妻子・従党とともに捕らえられて湖岸で斬首された。時に764年,これを恵美押勝の乱という。 乱後は道鏡が大臣禅師に任じられて政権を掌握し,淳仁天皇は廃位ののち淡路に配流され,孝謙上皇(称徳天皇)が重祚した。…

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