慈訓(読み)じくん

精選版 日本国語大辞典 「慈訓」の意味・読み・例文・類語

じ‐くん【慈訓】

〘名〙 ありがたい教え。慈愛のこもった教訓
※貞享版沙石集(1283)三「しかれども仏法大意、能々慈訓をかぶり侍りき」

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改訂新版 世界大百科事典 「慈訓」の意味・わかりやすい解説

慈訓 (じきん)
生没年:?-777(宝亀8)?

奈良時代の興福寺山階寺)の僧。河内国船氏の出身。738年(天平10)山階寺の僧として《大般若経》を写経所から借り,740年写経所に《顕揚論疏》を貸し,のちしばしば経論を写経所に貸借した。755年(天平勝宝7)宮中講師となり,756年5月,聖武天皇の病気に看病禅師,華厳講師を務めた功で少僧都となり,その戸と父母の戸の課役を免ぜられた。763年(天平宝字7)道鏡の圧迫で少僧都を解任されたが,770年(宝亀1)道鏡が失脚し少僧都に復した。
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朝日日本歴史人物事典 「慈訓」の解説

慈訓

没年:宝亀8(777)
生年持統5(691)
奈良時代の僧。「じきん」ともいう。河内国丹比郡(大阪府羽曳野市)の渡来系氏族船氏の出身。入唐僧の道昭同族。興福寺に入り法相,華厳教学を学ぶ。華厳講師,宮中講師を経て,天平勝宝8(756)年聖武天皇の死に当たり,看病禅師として奉仕,父母などの課役を免除され,少僧都に任じられた。このころ,光明皇后と縁のある法華寺内の外嶋院に住み,藤原氏の氏寺興福寺別当になっていたらしい。藤原仲麻呂と関係が深く,仲麻呂政権の崩壊後失脚したが,道鏡没落に伴い,宝亀1(770)年再び少僧都となった。<参考文献>佐久間竜『日本古代僧伝の研究

(鷺森浩幸)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「慈訓」の解説

慈訓 じくん

691-777 奈良時代の僧。
持統天皇5年生まれ。法相(ほっそう)宗。大和(奈良県)興福寺で法相を,審祥(しんじょう)に華厳(けごん)をまなぶ。少僧都,興福寺初代別当となり,藤原仲麻呂と提携して仏教政策をすすめる。道鏡に解任されたが,道鏡の失脚後,少僧都に復帰。宝亀(ほうき)8年死去。87歳。河内(かわち)(大阪府)出身。俗姓は船。法名は「じきん」とも。著作に「梵網経上巻抄記」。

慈訓 じきん

じくん

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普及版 字通 「慈訓」の読み・字形・画数・意味

【慈訓】じくん

母の教え。

字通「慈」の項目を見る

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