所口町(読み)ところぐちまち

日本歴史地名大系 「所口町」の解説

所口町
ところぐちまち

[現在地名]七尾市湊町みなとちよう一丁目・湊町二丁目・今町いままち鍛冶町かじまち川原町かわらまち塗師町ぬしまち相生町あいおいちよう橘町たちばなちよう作事町さくじまち大手町おおてまち檜物町ひものまち府中町ふちゆうまち生駒町いこまちよう亀山町かめやまちよう一本杉町いつぽんすぎまち阿良町あらまち米町こんまち三島町みしまちよう木町きまち常盤町ときわちよう白銀町しろがねちよう魚町うおまち松本町まつもとちよう富岡町とみおかちよう

前田利家が築いた小丸山こまるやま城の城下町で、廃城ののちも能登の政治・経済の中心地として繁栄した。七尾湾に沿ってほぼ東西に街区が延び、西部南側の標高約二〇メートルの独立丘に小丸山城跡がある。御祓みそぎ川が蛇行して城郭を東に回り、街区のほぼ中央を北流して七尾湾に注ぐ。分流のさくら川は城跡の西を迂回して町域の西端を北流し、七尾湾に注ぐ。北方海上に能登島が横たわって防波堤の役割を果し、天然の良港を形成する。初め七尾町ともよんだが、町全体をさす呼称ではなく、府中町と並列して表記されることもあった。また「所之口」とする用例もあって、府中町を含めた町全体をさす場合もあった。所口も七尾も中世から用いられているが、所口町は天正一九年(一五九一)一一月の伝馬人足平夫等定書(「前田利家朱印状」大成文書)の宛所に「所口町 町年寄中」とある。「所之口」は慶長一五年(一六一〇)九月二七日の前田知好書状(能登国古文書)に「所之口ひもの屋」、寛永一二年(一六三五)の藩定書(「慶長以来定書」加越能文庫)には「所之口町」とある。元禄一五年(一七〇二)一二月二日「七尾を所口と唱」(「改作方雑留」同文庫)と改められたが、依然混用が続き、明治八年(一八七五)三月二日七尾町と確定した(「石川県布達」鹿島郡誌)

〔町の建設と発展〕

天正九年能登一国を領した前田利家は、小丸山城の築造と城下町の整備に着手した。町域は所口村と府中村の地を割って形成し、能登守護畠山氏の拠った七尾城の城下の町人を移転させたという(能登志徴)。同一一年四月利家は金沢へ移るが工事は続行され、同一七年小島こじま・所口の百姓を明神野めじのの荒地に移して居屋敷を造成し(九月二二日「前田利家印判状写」能登生国玉比古神社文書)、所口総構堀普請は町夫を動員して工事を急がせた(「三輪家伝書写」加越能文庫など)。同一三年、小島川(現桜川)の対岸南西の小島村領丘陵部とその西側谷間に「山の寺」(現徳翁寺)などへ寺居屋敷を寄進したのをはじめ(徳翁寺文書)曹洞宗真言宗浄土宗・日蓮宗寺院が配置された。これより先の街区の東、府中村領には曹洞宗霊泉れいせん寺の近辺に真宗寺院を集めて道場町を形成した(元和九年「霊泉寺絵図」霊泉寺蔵など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の所口町の言及

【七尾[市]】より

…古代には能登国の国府,国分寺が置かれ,室町時代に守護畠山氏が七尾城を築き,天文年間(1532‐55)にはその城下に多くの家がたち並んだという。近世には七尾は所口(ところぐち)町(所口)と呼ばれ,1581年(天正9)七尾城に入った前田利家は翌年小丸山城を築いて城下町の経営をはかった。七尾港は天然の良港として知られ,江戸時代は北前船でにぎわうとともに幕末には加賀藩の海軍の根拠地となり,1862年(文久2)七尾軍艦所が設けられた。…

※「所口町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android