持明院(読み)ジミョウイン

デジタル大辞泉 「持明院」の意味・読み・例文・類語

じみょう‐いん〔ヂミヤウヰン〕【持明院】

京都市上京区にあった、藤原道長の曽孫基頼が邸内に建てた持仏堂の名。
姓氏の一。藤原北家道長流。藤原基頼の子通基が家名としたのに始まる。

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精選版 日本国語大辞典 「持明院」の意味・読み・例文・類語

じみょう‐いん ヂミャウヰン【持明院】

[1] 〘名〙
① 仏語。胎蔵界曼荼羅の西方諸院の一つ。煩悩を克服する大日如来の力を象徴する般若菩薩を中心に降三世、不動、大威徳、勝三世の各明王が住する。
[2]
[一] 京都市上京区安楽小路町にあった寺。藤原基頼が自邸内に建立した持仏堂をその子通基が寺としたもの。天治年間(一一二四‐二六)の創建。持明院殿。持明院仙洞
[二] 藤原北家の分流。(一)を建立した基頼の子通基が堂宇を修造して持明院氏を称した。通基の子基家の女が高倉天皇の皇子守貞親王の妃となったため、持明院家はしばしば里内裏や仙洞に住み、守貞親王の子後堀河天皇以下の天皇、上皇が多くこの院に居住したので持明院統と称した。

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日本歴史地名大系 「持明院」の解説

持明院
じみよういん

[現在地名]高野町高野山

往生院おうじよういん谷の南側、成福じようふく院の南にある。東側は往生院谷の支谷西にし谷の通り。別格本山本尊延命菩薩。「続風土記」によれば、もとみなみ宝性ほうしよう院の隣にあったが、元禄年中(一六八八―一七〇四)の高野聖断により改易された往生院谷十輪じゆうりん院の地を与えられて移転したという。文明五年(一四七三)の諸院家帳にも南谷道南に持明院を記す。慶長五年(一六〇〇)九月二四日の京極高次寄進状(持明院文書)に「高野山往生院小坂坊」とあり、小坂こさか坊は十輪院の別名であったらしい。また当院所蔵の持明院文書には甲斐武田氏の書状などがあり、それらは「引導院」宛になっている。

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世界大百科事典(旧版)内の持明院の言及

【両界曼荼羅】より

…この院の上部の五尊一列を遍智(へんち)院といい,その中央に三角火印がある。下部の五尊一列を持明(じみよう)院といい,般若菩薩を中心に,この院にのみ明王(みようおう)が左右に2尊ずつ配される。以上縦につづいた3院の両側に,3列7段ずつの一群が並ぶが,向かって左が観音院で,蓮華(れんげ)を持つ観音の諸尊群であるので蓮華部院とも呼ばれる。…

※「持明院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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