攘夷論(読み)じょういろん

精選版 日本国語大辞典 「攘夷論」の意味・読み・例文・類語

じょうい‐ろん ジャウイ‥【攘夷論】

〘名〙 江戸末期、外国との通商に反対し、外国を撃退することを主張した排外思想。儒学の中華思想に由来し、特に藤田東湖、会沢安らの後期水戸学はその典型。幕府の開国策に対して、尊王論と結びつき江戸幕府崩壊のもととなった。
文明論之概略(1875)〈福沢諭吉〉二「是即ち攘夷論の初に権を得たる由縁なり」

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デジタル大辞泉 「攘夷論」の意味・読み・例文・類語

じょうい‐ろん〔ジヤウイ‐〕【××夷論】

江戸末期、外国との通商に反対し、外国を撃退して鎖国を通そうとする排外思想。のちに尊王論と合流して討幕運動の主潮をなした。

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改訂新版 世界大百科事典 「攘夷論」の意味・わかりやすい解説

攘夷論 (じょういろん)

幕末における西洋列強の接近に対応し,海防論の一環として発生,展開した思想。攘夷論は開国論と対置される場合があるが,現実政策としての開国論と対立するのは鎖国論である。一方,国際社会のとらえ方という点で攘夷論,というよりもむしろ攘夷論の前提をなす華夷思想と対立するのは,諸国家は独立平等の存在であるべきだとする国家平等の観念である。攘夷論は鎖国論と結びついて発生したが,やがて西洋列強に並立するための海外膨張論などを生み出し,明治維新前後に華夷思想が解体するのとともに消滅した。

 1820-30年代に確立する水戸学は,西洋諸国は卑しむべき夷狄だから,接近してきたら打ち払うべきだとして,攘夷を創唱した。文化的・倫理的観点から中華と夷狄とを区別する儒教の華夷思想は,江戸時代に広く流通していたものだが,この夷狄の観念と日本に接近してくる西洋諸国とを不可分に結びつけ,その打払いを主張した点に攘夷論の新しさがある。しかし,この事実は必ずしも水戸学が世界の情勢に無知であったということではない。少なくとも当時の支配層の一般的水準からみると,それは世界情勢に強い関心をもち,西洋列強の実力を高く評価していた。にもかかわらず,それがあえて〈攘夷〉を強調したのは,西洋の脅威を直接的な軍事的侵略よりも,むしろ間接侵略の危険--キリスト教や平等思想など西洋の思想文物の浸透による幕藩体制の階層秩序の解体--に焦点をおいてとらえていたからである。この意味で水戸学の攘夷論は,名分論の観点から幕藩体制の階層秩序を再確認しようとするその尊王論と,密接不可分の関係にあった。また,それはイデオロギー中心型の海防論といってよく,国内秩序の安定を図るために外との接触を制限しようという,いわゆる鎖国制度の〈精神〉を幕末の新状況のもとで再強調したものとみることができる。しかし,水戸学には内外の危機にまっこうから取り組もうとする姿勢や,日本全体が一つの政治単位だという国家意識--この国家意識は華夷思想よりもむしろ国学の日本中心主義を基礎として〈神国〉〈皇国〉という言葉で表現された--がきざしており,これらの傾向は水戸学以後いっそう高まっていく。

 アヘン戦争(1839-42)は西洋列強による直接的な軍事侵略の危険を現実化することによって,広く武士層の間に攘夷論を浸透させていくが,ここでは軍事的関心が前面に出るのに対応して,その内容が変化しはじめる。まず第1に,軍事的関心が優越する反面として,日本と西洋諸国との間の文化的価値的隔絶を説く華夷思想の観点が後退する結果,西洋列強に対する軍事的対抗意識,国家的並立意欲が激しく高まり,これが〈攘夷〉の核心となっていく。それと同時に,攘夷のためには世界の状況,とくに敵情=西洋諸国の情勢を積極的に把握しなければならぬという主張,あるいは優れた西洋の軍事や科学技術を摂取しなければならぬという主張が現れる。さらに1853年(嘉永6)のペリー来航前後になると,彼我の力関係を無視した打払いを無謀として退ける意見だけでなく,時勢上鎖国は不可能だとする意見が出はじめ,弱肉強食の世界において列強に対抗するには海外膨張を実行する以外にないという,攘夷的開国論ともいうべき主張も展開される。

 1858年(安政5)に日米通商条約が勅許を求めつつも無勅許で調印されると,下級武士を主要な担い手として尊王攘夷運動が起こる。下級武士が幕藩制の政治機構とは離れて,むしろそれに対立する独自の政治運動を始めた点で,この運動は画期的意味をもつが,ここでは攘夷の名のもとに西洋人や西洋人用の施設の襲撃,あるいは西洋船の打払いなどが盛んに行われる。思想普及における時間のずれからして,この運動には多様な思想的立場が合流していたが,ここでの攘夷は,開国か鎖国かとか,西洋人排斥か否かという問題よりも,むしろ西洋列強に対して〈卑屈な〉幕府の対外態度,さらには幕府の存在そのものへの批判に,力点を移していたといってよい。そうして,その背後には幕府に任せておいたら,日本はやがて列強の植民地となってしまうといった危機感があった。こうした攘夷論の展開につれて,尊王論は敬幕論とは分離し,反幕ないし討幕の意味を帯びて高揚する。64,65年(元治1,慶応1)を境として尊王攘夷運動が尊王討幕運動に転換する,つまり運動の焦点が国内体制の変革に集中するようになると,攘夷という言葉は漸次使われなくなり,なお使われる場合にも,後述の国家平等の観念の影響をうけて,近代的な国家の独立の観念に接近していく。

 ところで,華夷思想に対する具体的批判は,尊攘運動と対立した公武合体論の流れのなかから出てきた。当初においては,それは華夷思想が西洋科学技術の導入や西洋諸国に対する現実的で柔軟な対応を妨げるのを防ぐ,という政略的観点に発しており,一部の攘夷論者の意見とそれほど隔たったものではなかった。やがて国防の中心は軍備よりもむしろ政治の問題であるという認識が現れ,それにつれて近代西洋の科学技術だけでなく,政治制度をも評価,導入しようとする動向が展開されると,華夷思想は漸次克服され,国家平等の観念も受け入れられる。この動向は尊王討幕派にも一定の影響を与え,明治維新前後には攘夷とか夷狄という言葉はほぼ完全に消滅する。けれども,開国の事情や帝国主義の時代における国際政治の現実などを背景として,近代日本では国家平等の観念は根づかず,攘夷論とともに出現した西洋列強に対する対抗意識・並立意欲や,国際社会は弱肉強食だという見方が脈々として存続し,対外的膨張の動因となる。
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百科事典マイペディア 「攘夷論」の意味・わかりやすい解説

攘夷論【じょういろん】

幕末に勢力をもった封建的排外思想。開国論に対する。儒学の華夷思想を素地とし,現実の外国勢力の脅威下で尊王論国学の神国思想と癒着し,特に開港以降は幕府の条約締結反対をスローガンとする反幕勢力の思想的支柱となった。後期水戸学等に典型的に現れ,尊王攘夷運動に引き継がれた。尊攘派は1860年代に入ると次第に積極的開国に転じていくが,攘夷論自体は明治初年まで残存し,士族反乱のスローガンともなった。
→関連項目海防論官板バタビヤ新聞黒船薩英戦争徳川斉昭明治維新

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「攘夷論」の意味・わかりやすい解説

攘夷論
じょういろん

江戸時代末期,ヨーロッパ諸国家の日本への進出に伴い,これを夷狄 (いてき) 視し,排撃しようとした思想。その根源は儒学の華夷思想による日本の独善的観念と国学に基づく国家意識である。それが,開港を契機として格段に高められ,水戸学などによる国粋主義の高まりと結びついて,民族的反発と危機意識を助長し,尊王攘夷思想およびそれによる尊王討幕運動へと移行した (→尊王攘夷運動 ) 。藤田東湖会沢安吉田松陰らは代表的思想家である。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「攘夷論」の解説

攘夷論
じょういろん

攘夷は夷狄(いてき)を攘(はら)う,斥けるの意味で,元来は中国の儒教において,礼の有無を基準とする華夷観念にもとづき自国を中華,周辺の諸民族を夷狄として賤しめ,中華への服従と感化を正当化する差別意識。日本の古代では,都を遠く離れた地域に住む熊襲(くまそ)や隼人(はやと)・蝦夷(えみし)などを夷狄としたが,近世以降は西洋諸国を夷狄とした。幕末期に,西洋諸国が強大な軍事力を背景にして日本に開国と貿易を迫ったことから,国家的・民族的危機意識にもとづく攘夷論が高揚し,外国公使館の焼打や外国人の殺傷事件がおこった。幕府が西洋諸国の圧力に屈すると,攘夷論はやがて討幕論と結びつき,幕府崩壊の一因となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「攘夷論」の解説

攘夷論
じょういろん

江戸後期に盛行した排外思想
儒学の華夷思想に基づく本朝独善思想と国学の神国思想が合体して発生。幕末になると外国勢力の圧力を感じ,民族的反発と国家危機意識が高揚し,長い鎖国体制下で外国事情に暗かったので,極端な排外思想となった。尊王論とは別個のものであったが,幕末の対外危機の中で結合して尊王攘夷論となり,討幕運動にまで発展した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「攘夷論」の意味・わかりやすい解説

攘夷論
じょういろん

尊王攘夷運動

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世界大百科事典(旧版)内の攘夷論の言及

【海防論】より

…鎖国論にもさまざまな立場があるが,貿易は日本有益の品と外国無用の品を交換するものだという貿易有害無益論が,キリスト教排斥論とともに,ほぼ共通の前提となっていた(この理論は以前からあった)。 鎖国論のなかで重要なのは,1820‐30年代に完成する水戸学攘夷論である。西洋諸国は卑しむべき夷狄(いてき)だから,接近してくれば打ち払うべきだという説であるが,この攘夷論の根底にあったのは,西洋諸国の危険をキリスト教やその他の有害思想の浸透といういわば間接侵略に焦点をおいてとらえる見方である。…

【尊王論】より

…しかし,天皇―将軍―大名―藩士という各級の者が直接の上位者に忠誠をささげることが不動の前提となっているため,尊王はこの階層秩序を維持しようとするものにほかならない。この意味でそれは,幕藩体制の階層秩序を防衛するために西洋の思想文物の浸透を阻止することに焦点をおいたその攘夷論と不可分の関係にあり,敬幕と結びついた江戸時代尊王論の枠内にとどまっていたといってよい。アヘン戦争(1839‐42)の衝撃とともに,水戸学の尊王攘夷論は広く武士層の間に浸透しはじめる。…

【中華思想】より

…華夏を侮り攻撃の矛を向けようものなら,中華意識はがぜん憤激し排撃的となる。〈夷狄,膺懲(ようちよう)すべし〉の攘夷論に転ずる。華夏は文化的に優越しているだけでなく,軍事においても夷狄を圧倒する大国であるべきなのである。…

【水戸学】より

…華夷思想に基づく〈夷狄〉の観念と西洋諸国とを不可分に結びつけ,その打払いを唱道したのは,水戸学が初めである。この攘夷論は軍事的防衛の施策を含みつつも,主眼は幕藩体制の階層秩序を保持するために,キリスト教や平等思想など西洋の思想文物が浸透してくるのを阻止することにあった。水戸学が西洋諸国の強大さを認識しつつも,あえて〈攘夷〉を唱えたのはこのためである。…

※「攘夷論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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