放生津(読み)ほうじようづ

日本歴史地名大系 「放生津」の解説

放生津
ほうじようづ

放生津潟から富山湾に流れ出るうち川に沿って形成された中世以来の港湾都市・政治都市。射水いみず大袋おおい庄の内。「遊行上人縁起絵」の正応五―六年(一二九二―九三)関係記事に「越中国放生津にて」とみえ、時宗二祖他阿真教が南条九郎を教化している。以後放生津には時宗道場報土ほうど寺が置かれ、越中時宗の拠点となった(「時衆過去帳」清浄光寺蔵)。時衆は舟運海運業などを営むことが多く、舟溜りとなる放生津潟から内川に入る東放生津地域において勢力をもっていた。こうした放生津の成長は平安時代末―鎌倉時代初期にかけての海退現象に伴って内川の港湾機能が高まった結果と思われる。

従来の律令制下での租税官物運京にあたっては、西に隣接する伏木ふしき(現高岡市)国府津から越前敦賀つるが(現福井県敦賀市)に送られるのが公定ルートであった。中世初頭、放生津の海岸部である奈呉なご浦は敦賀気比けひ神宮領とされ、布のほか鮮などの贄を貢納していたが(建暦二年九月日「越前気比宮社領所当米等注進状」敦賀郡古文書)奈呉浦が気比神宮の神領となったのも当地が国府津に近いうえ、港湾機能が向上したことや、時衆を中心とする経済的基盤の存在が背景にあったと考えられる。一方、国府津の機能低下の進行と、年貢・官物などの増大に伴う新港開発の必要性に対応するための国衙側による布石であったともいえよう。放生津潟には鍛治かじ川・下条げじよう川・和田わだ川などが流れ込み、それぞれ上流域に庄園などが形成されていた(建武三年九月一七日「勧修寺所領目録案」勧修寺文書)。港湾機能の向上に伴って庄園年貢などは放生津から若狭経由で運京されることが多くなり、発展していった。放生津の経済的発展に伴い鎌倉中期には守護所が現在の中新湊付近に置かれていたとみられる。

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百科事典マイペディア 「放生津」の意味・わかりやすい解説

放生津【ほうじょうづ】

放生津潟から富山湾に流れ出す内(うち)川に沿って形成された中世以来の港湾都市・政治都市。富山県新湊(しんみなと)市(現・射水市)に属する。中世は射水(いみず)郡大袋(おおい)荘のうち。鎌倉時代に時宗(じしゅう)道場の報土(ほうど)寺が置かれ,越中国の時宗の拠点となり,舟運・海運業が盛んになったとみられる。海岸部の奈呉(なご)浦が越前敦賀(つるが)の気比(けひ)神宮領となっていたのも伏木(ふしき)(現富山県高岡市)の国府津に近いうえ,海退現象による港湾機能の向上,時衆を中心とする経済的基盤の存在が背景にあったと考えられる。鎌倉中期には守護所が置かれ,その西に寺院が進出,内川に沿っては気比社・住吉社が勧請され,奈呉浦を背にしては放生津八幡宮が設けられた。鎌倉後期,東放生津時衆に本阿弥陀仏という廻船業者がおり,北条得宗(とくそう)のもと組織された関東御免の津軽船団に属し,財をなしていた。1306年本阿の持船が越前三国湊(現福井県坂井市三国町)に寄港した際,船・船荷が剥奪されたため相論となったが,1320年に和与となった。1333年守護名越(なごえ)時有の兄弟妻子は放生津で敗死したといい,観応の擾乱(かんのうのじょうらん)期に守護桃井(もものい)直常が足利尊氏・義詮(よしあきら)に追討された結果,臨済宗の名刹興化(こうげ)寺などとともに放生津は焼失した。再興は,放生津湊船の課役が石清水(いわしみず)八幡宮の進止下に置かれるようになった1382年ころから始まったとみられる。室町時代には,射水・婦負(ねい)両郡の守護代神保(じんぼ)氏のもとで発展したが,1455年に放生津館が畠山義就(はたけやまよしなり)方の攻撃により焼かれた。1493年から1498年までは足利義材(よしき)(足利義稙(よしたね))を放生津に迎え,多くの幕府奉公衆や奉行人・公家も下向した。1520年越後の長尾為景らの攻撃に神保氏は敗北し,放生津も戦乱の被害を受けた。その後復興し,1581年神保長住は放生津・湊町・山王社門前の場に保護を加え,押買(おしがい)・狼藉などを禁じている。またこのころ当地を掌握していた上杉方が放生津に〈十楽〉を安堵しており,市が栄えていたことが知られる。なお《楢葉越栞》は地名由来として〈古来の浦を奈呉といへるが,神会八月十五日にて,幸ひ放生会式日なれば〉,1328年に放生津と改めたという説を載せる。近世は金沢藩領で,廻船業や漁業の拠点として繁栄した。1649年には放生津新町が町立てされ,ともに多くの外海船を所持し,米や材木などを回漕する北前船の中継地となった。1858年の放生津町の家数1792,男3836・女3719。1871年周辺町村と合併して新湊町となった。

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改訂新版 世界大百科事典 「放生津」の意味・わかりやすい解説

放生津 (ほうじょうづ)

越中国放生津潟の北西側と日本海岸(奈呉の海)に接する中世以来の湊町(現,富山県射水市)。中世は大袋(おおい)荘に属し,日本海側の海陸交通の要衝であった。鎌倉時代には守護所が置かれたが,いつからかは不明である。守護名越氏が放生津に在地した徴証は鎌倉末期であり,《太平記》には1333年(元弘3)六波羅の敗報で在地勢が離反したため,守護名越時有の兄弟妻子が放生津で敗死した悲話を伝えている。建武政権の崩壊後,放生津はしばしば南朝方の拠点となった。越中へ入部した宗良(むねよし)親王もここを中心に活動したといわれ,また1352年(正平7・文和1)南朝方として桃井(もものい)直常と越後の新田義宗の軍勢もここに集結,上洛を図っている。室町時代には守護畠山氏の被官神保氏が越中に入部,のちに守護代となり,放生津を本拠とした。しかし畠山氏の分裂抗争のため,1455年(康正1)家督を継いだ義就派の攻撃で,政長派の神保国宗が放生津城から撤退したこともある。93年(明応2)細川政元のクーデタで将軍を廃され幽閉された足利義材(よしき)(足利義稙(よしたね))は,同年6月に脱出して放生津の神保長誠(ながのぶ)のもとに拠り,再起を図って,98年まで滞在した。この間,義材の放生津御座所を越中御所,義材を越中公方と称し,放生津には幕府奉公衆や奉行人,さらに公家衆も多く下向し,また伊勢貞仍(さだより),飛鳥井雅康,宗祇らの文人も来訪,活況を呈した。そののち長誠の子神保慶宗は長尾為景を主力とする越後,越中,能登3ヵ国守護方同盟軍と対戦し,1519年(永正16)放生津は戦乱の被害をうけ,為景の退去とともに復興が図られたが,翌年為景の再攻で慶宗は敗死,放生津の再建も挫折した。しかしやがて湊町としての繁栄を取り戻し,76年(天正4)上杉謙信の越中支配においては放生津で〈楽市座〉が認められている。放生津城は90年まで存続したといわれるが,江戸時代には越中の中心が富山,高岡に移ったため,主として漁業と〈外海船〉稼業による湊町となり,とくにここから礪(砺)波,射水郡の蔵米が大坂に回送された。1649年(慶安2)には東西に流れる内川の南側に放生津新町が町立てされ,旧来の放生津町とともに北前航路の中継地として繁栄した。

 1871年(明治4)放生津町,放生津新町などが合併して新湊町となった。時衆の2祖遊行上人(ゆぎようしようにん)の他阿真教は放生津で教化したといわれ(《遊行上人縁起絵》),すでに鎌倉時代から放生津には時宗寺院の報土寺があって,同寺を拠点として時宗の教線が小矢部(おやべ)川上流の地域に伸張した。報土寺の歴代住職は臨阿弥陀仏を名のり,24祖遊行上人不外ももとはここの寺僧であった。不外は神保慶宗の援助を得て,1519年の戦乱で焼失した同寺の再建にあたったが,翌年慶宗の敗死後,神保氏が富山で再挙するとともに寺基は富山に移された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「放生津」の意味・わかりやすい解説

放生津
ほうじょうづ

富山県射水市(いみずし)、庄川(しょうがわ)河口の富山新港の位置にあった都市。地名は条里制の北条に由来する、また、海岸部の奈呉浦(なごのうら)で、殺生を戒める神事の放生会(ほうじょうえ)が行われたことにちなむなどと言われている。中世は射水郡大袋荘(おおいのしょう)に属する湊町として知られ、鎌倉時代には越中国守護所が置かれた。『太平記』には、1333年(正慶2・元弘3)倒幕軍に攻められた守護名越時有(なごえときあり)一族が放生津城に火を放って自害したという悲話がある。室町期には守護代神保氏(じんぼし)の支配下に置かれ、1493年(明応2)には細川政元に京を追われた足利義稙(よしたね)が神保氏を頼って下向し、再起を図って1498年まで滞在している。戦国期には神保・長尾両氏の争いをはじめ戦乱が続いたが、1576年(天正4)上杉謙信の越中支配時には楽市楽座が認められ、賑わった。江戸時代には越中の中心地としての湊町に活路を見出した。

[溝口常俊]

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世界大百科事典(旧版)内の放生津の言及

【越中国】より

…その由緒で承久の乱には北条朝時が北陸道大将軍となって西上,これ以後,鎌倉時代を通じてその子孫の名越氏が守護職を世襲した。しかし守護名越氏もその守護代もともに鎌倉にあって,在地では又守護代が職務を代行し,守護所は放生津に置かれた。また名越氏と被官関係にあった地頭代(岡成,土肥,椎名氏等)が鎌倉幕府内における名越氏の権勢を背景として所領支配を拡大強化し,南北朝期以降に国人として発展する基礎を築いた。…

【新湊[市]】より

…人口3万8491(1995)。古くは奈呉,放生津(ほうしようづ)と呼ばれ,鎌倉時代の守護所,加賀藩時代の蔵宿がおかれるなど,この地方の中心であった。江戸時代には北前船をはじめ回漕業が盛んであった。…

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