敷田年治(読み)しきだとしはる

精選版 日本国語大辞典 「敷田年治」の意味・読み・例文・類語

しきだ‐としはる【敷田年治】

幕末明治国学者。豊前敷田村の八龍宮の社家出身諸国流浪独学研鑽して和漢の学を修めた。和学講談所勤務後、大阪の佐土原藩国学教習所の督、神宮皇学館教頭などを経て大阪堀江に私塾を開く。著「古事記標註」「日本紀標註」など多数。文化一四~明治三五年(一八一七‐一九〇二

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デジタル大辞泉 「敷田年治」の意味・読み・例文・類語

しきだ‐としはる【敷田年治】

[1817~1902]幕末・明治期の国学者。豊前ぶぜんの人。号、百園。帆足万里ほあしばんり師事。著「音韻啓蒙」「古事記標註」など。

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朝日日本歴史人物事典 「敷田年治」の解説

敷田年治

没年:明治35.1.30(1902)
生年:文化14.7.20(1817.9.1)
幕末明治期の国学者。豊前国宇佐郡(大分県宇佐市)敷田村二葉山神社の祠官宮本兼継の次男,天保10(1839)年からは同郡四日市町蛭子神社祠官吉松家の養子。名は仲治,通称主計之介,号は百園,百桃園など。郷里の大儒帆足万里に修学。弘化3(1846)年に従五位下に叙せられ,敷田姓に改名。幕末期は王政復古奔走。文久3(1863)年に江戸の和学講談所に出仕,維新直後には大阪へ移り,佐土原藩主島津忠寛に仕えた。明治4(1871)年河内へ隠退。14年伊勢に迎えられ,神宮皇学館の創設に尽力,教頭となった。3年余で隠退。晩年は大阪に住み,著作活動に情熱を注いだ。著書は『古事記標註』や『日本紀標註』のような古典注釈や,字書,地誌,歌文集など,51種もの幅広い著書や編著を残したらしい。<参考文献>高梨光司『敷田年治翁』

(ロバート・キャンベル)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「敷田年治」の解説

敷田年治 しきだ-としはる

1817-1902 幕末-明治時代の国学者。
文化14年7月20日生まれ。帆足(ほあし)万里,渡辺綱章らにまなび,和学講談所の教官となる。伊勢(いせ)の神宮皇学館の設立にかかわり,明治15年学頭となる。明治35年1月30日死去。86歳。豊前(ぶぜん)宇佐郡(大分県)出身。本姓は宮本,のち吉松。通称は伊勢守。号は百園。著作に「古事記標註」など。

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