文楽座(読み)ブンラクザ

デジタル大辞泉 「文楽座」の意味・読み・例文・類語

ぶんらく‐ざ【文楽座】

人形浄瑠璃劇場および劇団寛政年間(1789~1801)、淡路植村文楽軒が大坂高津橋南詰に開いた浄瑠璃小屋が母体明治5年(1872)松島移転して文楽座と称した。のち、御霊神社境内、四ツ橋、道頓堀と移転、その間に経営権も松竹に移った。昭和38年(1963)文楽協会発足を機に朝日座改称。昭和59年(1984)、国立文楽劇場が開設され廃座。現在、文楽座は劇団名として残る。

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精選版 日本国語大辞典 「文楽座」の意味・読み・例文・類語

ぶんらく‐ざ【文楽座】

人形浄瑠璃の劇場。寛政年間(一七八九‐一八〇一)淡路の人、植村文楽軒が大坂道頓堀ではじめた操人形一座にはじまる。初め高津橋南詰西浜側に創始し、のち、大坂地内を転々として、明治五年(一八七二)大阪松島新地に移り文楽座を名のった。同一七年平野町の御霊神社境内に移転、昭和五年(一九三〇)佐野屋橋畔の近松座改装移転し、さらに同三一年、道頓堀の弁天座跡に新築移転したが、同三八年、文楽協会の設立とともに朝日座と改称された。同五九年、国立文楽劇場の開設とともに廃座。現在、劇団の通称名として残る。

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改訂新版 世界大百科事典 「文楽座」の意味・わかりやすい解説

文楽座 (ぶんらくざ)

人形浄瑠璃の劇場名。淡路から大坂へ出た植村文楽軒は,寛政期(1789-1801)に人形浄瑠璃を始めたという。そして1811年(文化8)のころには,〈文楽の芝居〉と呼ばれていた。しかし座名としての〈文楽座〉は,博労町から松島へ移転した72年(明治5)に始まる。この松島文楽座は,彦六座との対抗上,84年に御霊神社の境内へ引っ越して文楽座の全盛期を招来するが,座主の失敗から1909年に経営権は松竹へ譲渡された。そして26年に出火全焼したあとは,四ッ橋の旧近松座が改装されて30年に開場する。この劇場は45年の空襲焼失翌年再建されて55年まで公演を続けた。道頓堀に朝日座が建築された際,同劇場は人形浄瑠璃の公演に限って文楽座と名のった。だが,それも第1回公演の56年1月から63年7月までで,以後は朝日座に統一されたため,文楽座の名称は消滅した。明治から100年近い歳月の間,人形浄瑠璃の殿堂として,文楽座の果たした役割は大きい。なお1885年,東京浅草に文楽座が建築され,人形浄瑠璃の東上公演が行われたこともある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「文楽座」の意味・わかりやすい解説

文楽座
ぶんらくざ

人形浄瑠璃(じょうるり)の劇場名および劇団名。淡路出身の植村(うえむら)文楽軒が寛政(かんせい)年間(1789~1801)に大坂高津橋(こうづばし)そばに浄瑠璃の小屋を設けたのが始めで、のち4世文楽翁が1872年(明治5)に大阪松島に移り「官許人形浄瑠璃文楽座」の看板を掲げた。文楽座の座名はここに始まる。84年2世豊沢(とよさわ)団平らの彦六(ひころく)座が大阪博労町稲荷(ばくろうちょういなり)境内(けいだい)に開場したため、対抗上御霊(ごりょう)神社境内に移転、以後、御霊文楽とよばれた。以来文楽座の全盛時代を迎えたが、座主の失敗のため1909年(明治42)に経営は松竹合名会社に譲渡された。松竹は新しい興行形式で出発したが、26年(大正15)に御霊文楽座が焼失。30年(昭和5)に四ツ橋の旧近松座を改装して開場し大いに栄えたが、45年に第二次世界大戦中の空襲でふたたび焼失した。翌年2月いち早く復興したが、戦後の混乱で劇団としての文楽座は因(ちなみ)会と三和(みつわ)会の二派に分裂し、15年にわたり苦難の時期を過ごした。その間56年、道頓堀(どうとんぼり)に文楽座が新築移転して因会の本拠となったが、劇団の経営が振るわなくなったため、ついに63年その運営は松竹から財団法人文楽協会に引き継がれ、両派は合同、文楽座は朝日座と改称した。以来文楽座は劇団名としてのみ存続していたが、84年4月、大阪日本橋(にっぽんばし)に国立文楽劇場が開場し、文楽の専用劇場としての役割を果たすことになった。

[山本二郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「文楽座」の意味・わかりやすい解説

文楽座
ぶんらくざ

人形浄瑠璃劇場,およびその劇場を本拠とした人形浄瑠璃劇団の名。寛政年間 (1789~1801) ,1世植村文楽軒が大坂高津橋西に席を設けたのが始り。文化8 (11) 年2世のとき,大坂博労町難波神社の境内に,非官許ながら常打ちの劇場「いなりの芝居」を設立。その後幾度か移転したが,文楽の芝居は以後人形浄瑠璃界の中心的存在となった。しかし天保の改革で寺社内での興行が禁止され,危機を迎える。明治5 (72) 年大阪西区松島に3世文楽軒により「文楽座」が設立され,政府公認の劇場として再出発。一時隆盛をみたが,1884年船場御霊神社内に移転,1909年5世のとき,経営が植村家から松竹合名会社に移った。 26年御霊「文楽座」焼失ののち,30年四ッ橋「文楽座」が開場,56年道頓堀へ移転。一時「因 (ちなみ) 会」「三和 (みつわ) 会」に分裂したが,63年合同して財団法人文楽協会として発足。その後,道頓堀「文楽座」は朝日座と改称され,「文楽座」という劇場名は現存しない。劇団名として文楽協会を文楽座と称することもある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「文楽座」の解説

文楽座
ぶんらくざ

大坂の人形浄瑠璃興行劇団名および劇場名。寛政期に初世植村文楽軒が創設。当初は文楽の芝居とよばれ,1872年(明治5)文楽座を名のる。1909年に興行権が松竹に移ったが,文楽座の名称は存続。その後諸座が統合されて文楽は人形浄瑠璃の代名詞となった。63年(昭和38)の文楽協会設立で座(劇団・劇場)名としては消滅した。

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世界大百科事典(旧版)内の文楽座の言及

【朝日座】より

…大阪の劇場。1956年に松竹によって道頓堀文楽座として建てられたが,松竹が文楽の経営を放棄して財団法人文楽協会が設立されたあとの63年8月に朝日座と改称した。収容人員1000名,鉄筋3階建ての近代劇場だが,もともと人形浄瑠璃のために設計されており,舞台の船底や電動で出入する太夫床など特殊な設備を有し,改称後も文楽の本拠として定期公演に使用され,文楽協会事務局も劇場内に置かれている。…

【植村文楽軒】より

…人形浄瑠璃文楽の芝居(後の文楽座)の創始者。本名正井(一説に征木(まさき))与兵衛。…

【劇場】より


[劇場の多様化]
 震災後に,復興または新しく建設されたおもな劇場は,24年に本郷座・演伎座・松竹座・市村座・帝国劇場・邦楽座に前記の築地小劇場,25年の歌舞伎座とつづく。25年に新たに新橋演舞場,30年に大阪四ッ橋の文楽座や東京劇場,32年に大阪歌舞伎座,33年に有楽町の日本劇場,34年に東京宝塚劇場,35年に有楽座,37年に浅草の国際劇場などが次々に竣工した。大正から昭和へかけて,歌舞伎・新派・新国劇・歌劇・バレエ・新劇・文楽や舞踊などが,上記の劇場はもとより巡業先の各地の劇場やホールで,撩乱たる多様化と繁栄の時代を迎えたのである。…

【興行】より

…京阪においても同様の処置が行われた。12世守田勘弥が,守(森)田座を猿若町から新富町に移転して新富座を新築し,観客席の一部を椅子席として観劇の仕組を改革したり,また植村文楽軒の操芝居が,大阪博労町の稲荷社境内から松島に移って,文楽座と名のって興行をしたのが,ともに明治5年のことである。99年11月に,福地源一郎(桜痴)と千葉勝五郎らによって木挽町に歌舞伎座(1824席)が開場した。…

【彦六座】より

人形浄瑠璃の劇場名。文楽座に対抗する勢力として,1883年6月,大阪日本橋(につぽんばし)北詰(大阪市中央区)に沢の席が開場した。興行ごとに評判が高まったので,寺井安四郎(1853‐1917。…

※「文楽座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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