文耕堂(読み)ぶんこうどう

精選版 日本国語大辞典 「文耕堂」の意味・読み・例文・類語

ぶんこうどう ブンカウダウ【文耕堂】

江戸中期の浄瑠璃作者大坂の人。はじめ松田和吉本名で、享保一五年(一七三〇以後は文耕堂と名乗り、大坂竹本座の浄瑠璃を執筆途中歌舞伎作品もある。「鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)」「壇浦兜軍記」「御所桜堀川夜討」など合作が多い。生没年未詳。

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デジタル大辞泉 「文耕堂」の意味・読み・例文・類語

ぶんこうどう〔ブンカウダウ〕【文耕堂】

松田文耕堂まつだぶんこうどう

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改訂新版 世界大百科事典 「文耕堂」の意味・わかりやすい解説

文耕堂 (ぶんこうどう)

浄瑠璃・歌舞伎作者。生没年不詳。本名松田和吉。享保(1716-36)ごろの大坂竹本座の作者で,初めは本名の松田和吉で書いたが,1730年2月の《三浦大助紅梅靮(みうらのおおすけこうばいたづな)》(竹本座)からは文耕堂の署名となる。作品は1722年9月の《仏御前扇車(ほとけごぜんおうぎぐるま)》が古く,これは翌年の《大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)》とともに,添削者に近松門左衛門の名前があることから,近松に師事していたといわれている。この後30年までは浄瑠璃作品はなく,京都で歌舞伎作者松田和吉として《唐錦妹背褥(からにしきいもせのしとね)》《大和縅男鑑(やまとおどしおとこかがみ)》を書いた。その後は再び竹本座で著作を続け,24曲ほどを書いた。初期は長谷川千四との合作が多く,30年の《三浦大助紅梅靮》,同じく《須磨都源平躑躅(すまのみやこげんぺいつつじ)》,31年9月の《鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりやくのまき)》,32年9月の《壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)》などがあり,現在も人形浄瑠璃,歌舞伎ともに上演されることが多い。ほかに,三好松洛との合作として36年(元文1)5月の《敵討襤褸錦(かたきうちつづれのにしき)》,37年1月の《御所桜堀川夜討(ごしよざくらほりかわようち)》,38年1月の《行平磯馴松(ゆきひらそなれまつ)》がある。竹田出雲との合作には,38年8月《小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)》,39年4月の《ひらかな盛衰記》,40年7月の《将門冠合戦(まさかどかむりがつせん)》などがある。41年(寛保1)5月の《新薄雪物語(しんうすゆきものがたり)》を,三好松洛,小川半平,竹田小出雲と合作した後は,文耕堂の署名入りの作品は消える。このころ没したのではないかと推定される。

 文耕堂は後世の番付面から,竹田出雲の門弟説があるが確証はない。紀海音(きのかいおん),竹田出雲,並木宗輔と並んで浄瑠璃四天王と呼ばれ,浄瑠璃全盛期の時代物作者として活躍したが,源平合戦に取材した地味な作品が多い。単独作は《河内国姥火》《車還合戦桜(くるまがえしかつせんざくら)》《元日金年越(がんじつこがねのとしこし)》《応神天皇八白旗(おうじんてんのうやつのしらはた)》の4作で,世話物は1作,他は合作である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「文耕堂」の意味・わかりやすい解説

文耕堂
ぶんこうどう

江戸時代中期の浄瑠璃作者。本名松田和吉。処女作は『河内国姥火 (うばがひ) 』 (本名単独で署名。 1713?) といわれる。『仏御前扇軍 (ほとけごぜんおうぎいくさ) 』 (15) や『大塔宮曦鎧 (おおとうのみやあさひのよろい) 』 (23,竹田出雲と合作) では近松門左衛門の添削を受けていることから,竹本座で近松に師事したと考えられる。以後享保 15 (30) 年まで作品がなく,それ以後は寛保1 (41) 年までほぼ毎年発表し,紀海音,竹田出雲,並木宗輔とともに作者四天王と称せられた。二十数編のうちのほとんどが合作によるもので,時代物が多い。代表作『鬼一法眼三略巻 (きいちほうげんさんりゃくのまき) 』 (31) ,『壇浦兜軍記』 (32) ,『御所桜堀川夜討』 (37) ,『ひらかな盛衰記』 (39) ,『新うすゆき物語』 (41) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「文耕堂」の意味・わかりやすい解説

文耕堂
ぶんこうどう

生没年未詳。江戸中期の浄瑠璃(じょうるり)作者。大坂・竹本座の作者で、初期は松田和吉(わきち)の名で、1730年(享保15)以後は文耕堂を用いた。近松門左衛門の弟子といわれる。浄瑠璃の作品は25編あり、単独作が6編、合作に『鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)』『壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)』『敵討襤褸錦(かたきうちつづれのにしき)』『御所桜堀川夜討(ごしょざくらほりかわようち)』『ひらかな盛衰記』などがある。作風は堅実で内面的で上品な作が多い。当時世間では紀海音(きのかいおん)、竹田出雲(いずも)、並木千柳(せんりゅう)とともに浄瑠璃作者の四天王と称した。

[山本二郎]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「文耕堂」の解説

文耕堂 ぶんこうどう

?-? 江戸時代中期の浄瑠璃(じょうるり)作者,歌舞伎作者。
大坂竹本座の作者で,近松門左衛門に師事したといわれる。一時期京都で歌舞伎作品に手をそめたが,享保(きょうほう)15年(1730)竹本座にもどり,軍記物を中心に二十四,五本の作品をかいた。本名は松田和吉。作品に「応神天皇八白旗(やつのしらはた)」「壇浦兜軍記」など。

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世界大百科事典(旧版)内の文耕堂の言及

【人形浄瑠璃】より

…若太夫はこの暗い戯曲に派手な東風の節付けを巧みに施し,興行的にも成功を収めた。一方,竹本座では近松門下の文耕堂,初世竹田出雲(竹本座経営者兼作者)らが,2世義太夫の質実剛健な語り口にふさわしい,英雄的な男性主人公の活躍を力強く描いた(《ひらかな盛衰記》など)。45年(延享2)両座の太夫の世代交替を機に,並木宗輔は竹本座に移り,2世竹田出雲,三好松洛らと合作《菅原伝授手習鑑》《義経千本桜》《仮名手本忠臣蔵》など,時代物の最高傑作を次々に著し,文三郎の人気と相まって人形浄瑠璃は隆盛の極に達し,〈歌舞伎はなきが如し〉とまでいわれた。…

【猫騒動物】より

…お家騒動にからめて怪猫のたたりを描くものが多い。古くは1740年(元文5)4月大坂竹本座初演,文耕堂,千前軒,三好松洛ら合作の人形浄瑠璃《今川本領猫魔館(いまがわほんりようねこまたやかた)》があり,今川家のお家騒動に怪猫を配している。歌舞伎では1827年(文政10)6月江戸河原崎座,4世鶴屋南北作《独道中五十三駅(ひとりたびごじゆうさんつぎ)》が有名。…

※「文耕堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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