斉明天皇(読み)サイメイテンノウ

デジタル大辞泉 「斉明天皇」の意味・読み・例文・類語

さいめい‐てんのう〔‐テンワウ〕【斉明天皇】

[594~661]第37代天皇女帝。在位655~661。皇極天皇重祚ちょうそ大化の改新後、蝦夷えぞ征討軍を派遣。百済くだら救援のため自ら九州に赴き、その地で病没

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精選版 日本国語大辞典 「斉明天皇」の意味・読み・例文・類語

さいめい‐てんのう ‥テンワウ【斉明天皇】

第三七代の天皇。皇極天皇の重祚(ちょうそ)舒明天皇皇后孝徳天皇死後飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)即位翌年飛鳥岡本宮に遷都。在位七年。推古天皇二~斉明七年(五九四‐六六一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「斉明天皇」の意味・わかりやすい解説

斉明天皇
さいめいてんのう
(594―661)

女帝。第35代とされる皇極(こうぎょく)天皇(在位642~645)が重祚(ちょうそ)して第37代とされる斉明天皇(在位655~661)と諡(おくりな)される。名は宝(たから)。和風諡号(しごう)は天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇。茅渟(ちぬ)王の皇女。母は吉備(きび)姫王で、孝徳(こうとく)天皇の同母姉。初め高向(たかむこ)王(用明(ようめい)天皇の孫)との間に漢(あや)皇子を生み、その後に田村(たむら)皇子(舒明(じょめい)天皇)との間に葛城(かずらき)皇子(天智(てんじ)天皇)、間人(はしひと)皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人(おおあま)皇子(天武(てんむ)天皇)を生んだ。舒明天皇の即位とともにその皇后にたち、天皇の死のあと即位した(皇極天皇)が、645年(大化1)6月の蘇我(そが)本宗家滅亡事件によって譲位。第36代孝徳天皇の没後、皇祖母尊として在(あ)った飛鳥(あすか)でふたたび即位し、飛鳥川原宮、ついで後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)に移った。その後も大土木事業をおこしたが、とくに石上山(いそのかみやま)に通じる大水渠(すいきょ)を、時人は狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)といったという。斉明女帝の政治は、皇太子中大兄(なかのおおえ)の輔(たす)けを受けて進められたが、有間(ありま)皇子の謀殺事件、東北や粛慎(みしはせ)の蝦夷(えみし)征討をはじめ国内政局は安定せず、国際的には朝鮮関係のうち、とくに対新羅(しらぎ)関係が緊迫した。そして、唐・新羅連合の圧力に苦しむ百済(くだら)の救援要請を受け、660年(斉明天皇6)から百済救援軍派遣の準備を進め、翌年には自身も筑紫(つくし)に出陣し朝倉宮を本営とした。しかし、ここで病となり、7月に没した。陵墓は奈良県高市(たかいち)郡の越智崗上(おちのおかのうえ)陵。

[門脇禎二]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「斉明天皇」の意味・わかりやすい解説

斉明天皇
さいめいてんのう

[生]推古2(594).大和
[没]斉明7(661).7.24. 筑紫
第37代の天皇,女帝(在位 655~661)。第35代皇極天皇の重祚(ちょうそ)。第34代舒明天皇の皇后。名は天豊財重日足姫尊(あめのとよたからいかしひたらしひめのみこと),諱は宝,敏達天皇の曾孫にあたる。茅渟王(ちぬのおおきみ)の娘,母は吉備姫王(きびつひめのおおきみ)。初め高向王(たかむくのおおきみ)に嫁いで漢皇子(あやのみこ)を生んだが,のち舒明天皇の皇后となり,中大兄皇子(のちの天智天皇),大海人皇子(のちの天武天皇)を生んだ。
舒明天皇の没後,蘇我氏古人大兄皇子の即位を企てたが,反蘇我派が台頭して皇極1(642)年1月,皇極天皇の即位が実現した。最初,小墾田宮(おはりだのみや)を皇居としたが,翌 2(643)年4月に飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)に移った。当時,蘇我入鹿の権力が強く,山背大兄王を斑鳩宮に攻めて自殺させるなど横暴が続いたが,同 4(645)年6月に中大兄皇子らが蘇我氏を滅ぼすと(→大化改新),天皇は皇位を弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲った。
孝徳天皇の没後,重祚して斉明天皇となり,都を飛鳥に復したが,その冬,板蓋宮が炎上したため飛鳥川原宮(あすかのかわらのみや)に遷御し,翌年に後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)に移った。斉明4(658)年には阿倍比羅夫をつかわして,蝦夷を 2回,粛慎(みしはせ)を 2回討伐したといわれる。一方,唐・新羅連合軍に攻められた百済の求めに応じ,同 7(661)年,百済救援軍を送り,天皇みずから筑紫朝倉に赴いたが,救援軍進発の直前,朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)で崩御。陵墓は奈良県高取町の越智崗上陵(おちのおかのうえのみささぎ)。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斉明天皇」の解説

斉明天皇 さいめいてんのう

594-661 飛鳥(あすか)時代,第37代天皇。在位655-661。
孝徳天皇のあと,皇極(こうぎょく)天皇が重祚(ちょうそ)。中大兄(なかのおおえの)皇子(のち天智天皇)が皇太子として国政にあたる。阿倍比羅夫に蝦夷(えみし)や粛慎(みしはせ)を討たせ,朝鮮半島に百済(くだら)救援軍を派遣する(663年白村江の戦いで敗れる)。斉明天皇7年7月24日遠征中の九州朝倉宮で死去。68歳。墓所は越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)(奈良県高取町)。⇒皇極天皇

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改訂新版 世界大百科事典 「斉明天皇」の意味・わかりやすい解説

斉明天皇 (さいめいてんのう)

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百科事典マイペディア 「斉明天皇」の意味・わかりやすい解説

斉明天皇【さいめいてんのう】

皇極天皇

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「斉明天皇」の解説

斉明天皇
さいめいてんのう

皇極天皇(こうぎょくてんのう)

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旺文社日本史事典 三訂版 「斉明天皇」の解説

斉明天皇
さいめいてんのう

皇極天皇

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世界大百科事典(旧版)内の斉明天皇の言及

【皇極天皇】より

…後に重祚して斉明天皇。第35代,第37代に数えられる天皇。…

【神功皇后】より

…仲哀天皇の妃で記紀の新羅遠征説話の主人公,また応神天皇の母とされる。別名,気長足姫(おきながたらしひめ)尊(記では息長帯比売命)。
[神功皇后伝説の大要]
 熊襲(くまそ)を撃つため筑紫に赴いた仲哀天皇は,海のかなたの宝の国を授けようという神託を得る。この神言は武内宿禰(たけうちのすくね)が請い,神がかりした神功皇后を通じて告げられた。その宝の国とは先進文明に輝く朝鮮半島諸国のことであったが,これを信じなかった仲哀天皇は急死する。…

※「斉明天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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