斎藤野の人(読み)さいとうののひと

日本大百科全書(ニッポニカ) 「斎藤野の人」の意味・わかりやすい解説

斎藤野の人
さいとうののひと
(1878―1909)

評論家本名信策。山形県に生まれる。高山樗牛(ちょぎゅう)の実弟。旧制二高を経て東京帝国大学独文科卒業。大学在学中『帝国文学』、卒業後は姉崎嘲風(ちょうふう)のもとで『時代思潮』の編集に従事。主としてこの2誌に、明治30年代後半の宗教的浪漫(ろうまん)主義思潮に乗じて旺盛(おうせい)な評論活動をし、天才賛美、個人尊重を説いたが、兄樗牛と同じ32歳の若さで病死した。『芸術と人生』(1907)、『哲人何処にありや』(1913)の著書のほか、編著『樗牛全集』もある。

[小野寺凡]

『『明治文学全集40 斎藤野の人他集』(1970・筑摩書房)』

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朝日日本歴史人物事典 「斎藤野の人」の解説

斎藤野の人

没年:明治42.8.6(1909)
生年:明治11.4.14(1878)
明治時代の評論家。本名信策。高山樗牛の実弟。山形県鶴岡の生まれ。東京帝大独文科卒業。早くから『帝国文学』に筆を執り,『時代思潮』でも活躍。『国家と詩人』(1903)では天才を礼賛,その情熱は兄樗牛にも負けないほどだった。明治憲法を批判した『照々乎たる哉』(1905)が当局の忌諱に触れ,明治大学の職を追われた。評論集『芸術と人生』(1907)を出すが,自然主義に批判的な論調を示した。肺結核夭折,没後遺稿集『哲人何処に在りや』(1913)が出た。兄に隠れて目立たないが,その仕事は改めて注目されてよい。

(中島国彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「斎藤野の人」の解説

斎藤野の人 さいとう-ののひと

1878-1909 明治時代の評論家。
明治11年4月14日生まれ。高山樗牛(ちょぎゅう)の弟。東京帝大在学中に「帝国文学」,卒業後「時代思潮」の編集にたずさわり,天才賛美,個人尊重をとく評論を発表した。明治42年8月6日死去。32歳。山形県出身。本名は信策(しんさく)。著作に「芸術と人生」,遺稿集に「哲人何処(いずこ)にありや」。

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