新地(読み)しんち

精選版 日本国語大辞典 「新地」の意味・読み・例文・類語

しん‐ち【新地】

〘名〙
① 新たに荒地を開墾した土地。また、新たに居住地として開けた土地。新田。新開地。
※浮世草子・西鶴織留(1694)二「新地十間口の家然(しか)も浜にて裏に借蔵迄建つづきしを」
② 新しく得た領地。新知。
※観泉寺文書‐天文二〇年(1551)一二月二日・乗蓮等起請文「将又うり地之事、甚二郎別儀の上は新地に成候事候間、無別儀申調可進候」
※虎明本狂言・麻生(室町末‐近世初)「安堵の御教書を下され、新地を拝領いたし、あまつさへおいとまを下された」 〔戦国策‐趙策・恵文王〕
③ 新開地にできた遊里。また、単に遊里。遊里は一般に土地を開いて設けられる場合が多かったところからいう。江戸時代、大坂では曾根崎新地(大阪市北区)をさしていうことが多い。
※浮世草子・傾城色三味線(1701)大坂「今時新地の茶屋女さへ、不便をかけてこまがねを取せ」
④ 江戸時代、寛永八年(一六三一)以後元祿四年(一六九一)までの間に、新しく建てられた寺院。それ以前に建立された寺院を古跡といい、元祿五年に幕府は、新地の寺院の建立を禁じ、新地も古跡として認めた。なお、新地のうち、寛永八年から寛文八年(一六六八)に建立された寺院を、古跡並とよんで区別した例もみられる。→古跡並(こせきなみ)
御触書寛保集成‐二一・元祿元年(1688)四月「寺院古跡新地之定書」
⑤ 新しく移った土地。
菅家文草(900頃)五・松「故山辞澗底、新地近仙亭

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デジタル大辞泉 「新地」の意味・読み・例文・類語

しん‐ち【新地】

新しく居住地として開けた土地。新開地。
《多く新開地にできたところから》遊里。「新地通い」
新しく手に入れた領地。新知。

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日本歴史地名大系 「新地」の解説

新地
しんち

[現在地名]堺市戎島えびすじま町三―五丁・栄橋さかえばし町一―二丁・竜神橋りゆうじんばし町一―二丁・住吉橋すみよしばし町一―二丁・大浜北おおはまきた町一―五丁・大浜中おおはまなか町一―三丁・大浜南おおはまみなみ町一―三丁・北波止きたはと町・三宝さんぽう町一丁

戎島および甲斐町かいのちよう筋から中之町なかのちよう筋にかけた浜の西にある。堺の港は宝永年間(一七〇四―一一)以降、大和川から流出する土砂堆積による付洲の生成に絶えず悩まされ、港湾機能を回復する修築工事を繰返す度に沖合へと拡大していった。新地はこの新洲上に形成され、発展していった新市街地である。

港湾修築工事の第一段階は、江戸の商人吉川俵右衛門の手になり、文化七年(一八一〇)に完成をみた。事業内容は付洲の先端の南北に大波戸・小波戸を整備して、大波戸の内側に港(南湾)を築き、両波戸東方の市之いちのはままでたて川を通し、さらにここから旧海岸線に沿って南北方向に、南は中之町浜から北は大小路筋まで新堀(吉川開削堀)を築き、北はすでに享保年間(一七一六―三六)に開通していた布屋ぬのや堀と結んだ。続いて天保年間(一八三〇―四四)に再び港の大改修が行われ、新堀を南の芦原あしはら町のはままで延長し(天保掘割)、ここにうち川と称される西の掘割が完成した。また中之町浜付近で内川から分岐し、弓形に北上して竪川に至るあさひ(新堀川)も完成した。さらに嘉永七年(一八五四)小波戸の内側に北湾を築いて港を拡大した。

こうした港湾河川開削の結果、新洲の土地造成と開発が促進され、とくに海岸の埠頭に臨む地の利から、移住する者が増加した。当初新地は一面の蘆原で、文政四年(一八二一)頃には橋の南西に一軒の人家があるにすぎなかった(大阪府全志)。しかし天保の港湾改修とも相まって、まず旭川以東の地の開発が進んで天保五年に町名を定め、建家の出願が続出し(同書)、同一三年、市中町家の間に介在する茶屋を廃し、当地域内の竜神一―二丁目・栄橋通さかえばしどおり一―二丁目および戎島に移して遊所としたため、急速に市街地と化した。

新地
しんち

[現在地名]酒田市相生町あいおいちよう一―二丁目・御成町おなりちよう

善導ぜんどう寺と天正てんしよう寺の北に位置し、南を閉じたコの字形の町並。善導寺の北側を外野との町、天正寺の北側をたか町と称し、内町組に属する。町域はもと平田ひらた郷大町組浜畑はまはた分で不毛の砂地であったが、宝永三年(一七〇六)甚右衛門など一二四人が当町域に家作を請願、同五年平田郷代官・大庄屋立会いのもと東西九六間余・南北一五五間余、総坪数一万三千六二二坪を内町組に貸付けることとし、間口四間三尺―五間として割当て、出目三軒を含め総家数一二七軒とした(「借地絵図証文」尾形文書など)

新地
しんち

戦国期から近世にみえる地名。現在の谷地小屋やちごや付近に比定され、同地に新地の字名が残るが、現新地町中部・北部を示す広域地名としても使用された可能性がある。なお新地は新治(にいはり)の転訛で、すなわち新墾(にいはり)を意味し、谷地などの開発に由来する地名とする説がある。伊達輝宗日記(伊達家文書)の天正二年(一五七四)五月二九日条に「ひるかたち、新地より到来、無何事」と記される。

新地
しんち

[現在地名]蔵王町遠刈田温泉 新地

遠刈田とおがつた温泉から南西約一キロ、まつ川対岸にあり、不忘ふぼう山東麓の三住みすみ集落(白石市)に通じる道を挟む小集落。遠刈田からの分村とも思われるが不詳。木地挽業が盛んで、伝統こけしの遠刈田系の発祥地とされる。享保一二年(一七二七)の宮村村高帳(白石市史資料)に遠刈田新地二貫三六文とある。寛延二年(一七四九)の刈田一郡諸役帳(菊地民衛家文書)宮村の項に木地挽半役六人分本代二一〇文とあり、また別に新地・組頭御知行として佐藤善七が一〇文、同佐藤十助が四〇文など佐藤姓のみ一二人の名と知行分が記される。

新地
しんち

[現在地名]三田市三田町

きた町の東の町人町。元禄元年(一六八八)の三田絵図(九鬼家蔵)には記載がないが、寛政五年(一七九三)の三田古地図(同家蔵)河合かわい新開地しんかいちとみえ、南は湯山ゆのや町に隣接し、北は武庫むこ(三田川)河原に接する。武庫川に架かる新地橋近くの河原は三田藩の処刑場で、新地橋南詰に検分役所、大水時の田中たなか村・桑原くわばら村など下流諸村からの出水番人足小屋や小役人詰所があり、北詰には天保一四年(一八四三)に往来安全のために建てられた灯籠があった。

新地
しんち

[現在地名]桑名市新地

福江ふくえ町の西にあり、東西四条の下級藩士の屋敷地。きたなかみなみと分称する。当地は江場えば村字出屋敷でやしきの地であったが、正徳年中(一七一一―一六)に足軽屋敷として開発された。飲料水となる町屋まちや川御用水が当町中の各戸の前を流れている。天保一二年(一八四一)六月二日に大火があり、「桑名日記」には「新地北中の町西長屋が火元でござりますといふ。

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改訂新版 世界大百科事典 「新地」の意味・わかりやすい解説

新地 (しんち)

新たに開けた土地のこと。とくに江戸時代の都市の,17世紀後半以降の拡大再編過程で,河川の改修工事や海辺の埋立て,また土地の割替えなどの結果,新たに造成され居住地となった部分を,従来からある土地に対して新地という。新町,新屋敷も同様の意味で用いることが多い。大坂では17世紀末の元禄期に河村瑞賢により安治川の開削,堂島川,曾根崎川の浚渫(しゆんせつ)など大規模な河川改修工事が行われ,安治川新地9町,堂島新地11町,堀江新地24町などの新たな町が成立している。このような新地開発は元禄期以後も続けられ,大坂の町は新地開発によって発展したといってもよい。江戸でも大坂ほどではないが,深川の埋立地を築出新地と呼んだり,尾張町1丁目新地のようにいったん火除明地になった後に町屋敷が復活した土地や,武家屋敷から町屋敷に変わった土地を俗称で新地,または新町,新屋敷と呼ぶ例は多い。大坂では新開地である新地の繁栄を図るため,茶屋,煮売屋,風呂屋,芝居小屋など遊興施設の営業を許可したため,都市の発展にともない難波新地,曾根崎新地などは大坂の中でも有数の繁華街となった。難波新地の法善寺は千日回向を行う千日寺として知られ,その門前である千日前の繁栄は近代に至るまで受けつがれている。曾根崎新地は揚屋,遊女屋の営業が中心となり,江戸中期以降大繁盛する。このほか,江戸深川の岡場所であった大(おお)新地,小(こ)新地の繁栄もあったため,新地は公認の遊郭であった江戸の吉原,大坂の新町,京の島原以外の新開地に開かれた遊里(遊郭)の代名詞のように用いられるようにもなった。
執筆者:

新地[町] (しんち)

福島県北東端,相馬郡の町。人口8224(2010)。浜通り地方の最北端,宮城県境に位置する。阿武隈高地の支脈がいくつかの段丘面を形成して太平洋に至り,その間を中小河川が東流して沿岸に平地をつくる。新地と駒ヶ嶺は近世には浜街道の宿駅で,現在も国道6号線,JR常磐線が通じる。従来,農漁業を主にしてきたが,1974年から相馬港建設が始まり,工業団地が造成され,第2次産業の成長が著しい。遠浅の釣師浜は海水浴場,釣場として知られる。縄文後・晩期の新地貝塚(史)がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「新地」の意味・わかりやすい解説

新地
しんち

新たに荒れ地を開墾したり、河川を埋め立てたりして造成された土地。新田あるいは新開地をいい、また、新しく得た領地をいう。江戸時代以降、江戸や大坂といった大都市の膨張が、新地とよばれる新開地をつくりだした。江戸で新地といえば、1734年(享保19)越中島の北端を埋め立てた深川築立新地(東京都江東区)をいう。ここは深川遊里七場所の一つで、南は海を見通し、西は大川(隅田川)口に臨んだ景観の地として繁華な遊興街であった。また、中洲(なかず)新地とよばれる隅田川西岸、新大橋南方の埋立地は、1772年(安永1)の埋立て以来、1789年(寛政1)に取り払われるまで私娼(ししょう)街として繁盛し、明治年間に再度埋め立てられ、現在の中央区日本橋中洲町となっている。大坂では、曽根崎(そねざき)新地(大阪市北区)をいい、1688年(元禄1)以来開発、町割が行われ、茶屋、風呂(ふろ)屋、芝居小屋が並び建って繁栄し、現在に至る。もとこれら新地は、町屋とすべく開発されたが、その土地の繁栄振興策として茶屋などの設置が許され、とくに私娼街として繁盛するようになったのが注目される。

[棚橋正博]

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百科事典マイペディア 「新地」の意味・わかりやすい解説

新地【しんち】

元禄期(1688年−1704年)以降,都市の拡大再編過程で河川の改修や海辺の埋立てなどにより,新たに造成され開けた土地のこと。新町,新屋敷ともいう。新地開発によって発展したともいわれる大坂の町では,新地の繁栄を図るため,茶屋,煮売屋,風呂屋,芝居小屋など遊興施設の営業を許可したため,難波(なんば)新地,曾根崎(そねざき)新地などは大坂でも有数の繁華街となった。江戸でも深川の埋立地を築出(つきだし)新地とよんだり,火除明地となった後に町屋敷が復活した土地などを新地とよんだ。その後,新地は公認の遊郭であった江戸吉原,大坂新町,京島原以外の新開地に開かれた遊里の代名詞のようにも使われた。

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世界大百科事典(旧版)内の新地の言及

【干拓】より


[日本の干拓]
 東日本に湖沼干拓が多く,西日本に海面干拓が多い。湖沼干拓地は新田という地名であるが,海面干拓は旧藩領によって異なり,八代海の新地,有明海の牟田(むた),搦(からみ),籠(こもり),瀬戸内海の開作,新開などがあり,大阪湾,伊勢湾では新田という。湖沼干拓は17世紀の治水技術の発達によって,干潟八万石,飯沼,見沼,紫雲寺潟などに2000~3000haの干拓地ができた。…

※「新地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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