新海竹太郎(読み)しんかいたけたろう

精選版 日本国語大辞典 「新海竹太郎」の意味・読み・例文・類語

しんかい‐たけたろう【新海竹太郎】

彫刻家山形県出身。ヨーロッパ留学後、太平洋画会彫刻部を主宰。明治後期から大正時代にかけての彫刻界に指導的役割を果たした。新古典的な塑像のほか風俗的な主題木彫も作った。代表作「ゆあみ」「大山元帥像」。明治元~昭和二年(一八六八‐一九二七

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デジタル大辞泉 「新海竹太郎」の意味・読み・例文・類語

しんかい‐たけたろう〔‐たけタラウ〕【新海竹太郎】

[1868~1927]彫刻家。山形の生まれ。新古典的な作風活躍、太平洋画会彫刻部を主宰した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新海竹太郎」の意味・わかりやすい解説

新海竹太郎
しんかいたけたろう

[生]慶応4 (1868).2.5. 山形
[没]1927.3.11. 東京
彫刻家。号は古竹。少年時代に日本画を学んだ。1886年上京,一時軍務に服したがウマの彫刻に興味をいだき,退役して木彫を後藤貞行,塑像を小倉惣次郎に,デッサン浅井忠に学んだ。1898年日本美術院創立に際し,その正員となり,1899年パリ国際博覧会(→国際博覧会)の鑑査官となる。1900年ドイツに留学し,ベルリン美術学校に学んだ。1902年帰国,同年太平洋画会会員となり彫刻部を主宰して後進を指導。文展審査員を務め,明治末期から大正にかけての洋風彫塑の発展に尽くした。1917年帝室技芸員,1919年帝国美術院会員。写実的な作風からしだいに東洋的な静的表現に移った。代表作『ゆあみ』(1907,東京国立近代美術館),『大山元帥像』(上野恩賜公園)。

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朝日日本歴史人物事典 「新海竹太郎」の解説

新海竹太郎

没年:昭和2.3.12(1927)
生年:明治1.2.5(1868.2.27)
明治大正期の彫刻家。父は宗松,母サダ。生家は山形市で代々仏師だった。明治19(1886)年,陸軍士官を志して上京し,苦学するうち,21年,徴兵されて近衛騎兵隊に入営。在隊中に試みた馬の木彫が上司の目にとまり,それがきっかけとなって除隊後,彫刻家の後藤貞行に彫技を,小倉惣次郎に塑造を学ぶ。32年,「北白川宮能久親王殿下騎馬銅像」(東京国立近代美術館蔵)で名声を博す。33年渡仏。のち,質実さを好んでベルリンへ移り,ヘルテルに師事した。ブロンズの大作に長じたほか,ドイツのアカデミックな作風にアール・ヌーボーを取り入れた「ゆあみ」,日常生活に取材した浮世彫刻など,題材,技法,作風ともに幅広く試み,西洋の模倣にとどまらない日本の近代彫刻の創出をめざした。また,太平洋画会研究所で彫塑を指導した。大正6(1917)年帝室技芸員,8年帝国美術院会員となった。<参考文献>中村伝三郎『明治の彫塑』

(山梨絵美子)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「新海竹太郎」の意味・わかりやすい解説

新海竹太郎
しんかいたけたろう
(1868―1927)

彫刻家。山形市生まれ。生家は代々仏師。漢画、漢学を学び、1886年(明治19)軍人を志して上京、騎兵隊に属し、その間、馬の彫刻をつくる。後藤貞行、小倉惣次郎に彫刻を学び、1900年(明治33)ドイツに渡ってベルリン美術学校教授ヘルテルに師事し、官学派の古典主義彫刻を研究して02年帰国した。07年第1回文展から審査員を務め、『ゆあみ』を出品した。太平洋画会研究所彫刻部を主宰し、多くの後進を指導、17年(大正6)帝室技芸員、19年帝国美術院会員となり、明治後期から大正期にかけての代表的な彫刻家として活躍し、風俗的な主題の木彫もつくった。代表作に『ゆあみ』『斥候(せっこう)』『北白川能久(よしひさ)親王騎馬像』『大聖歓喜天像』などがある。

[三木多聞]

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百科事典マイペディア 「新海竹太郎」の意味・わかりやすい解説

新海竹太郎【しんかいたけたろう】

彫刻家。山形県生れ。陸軍除隊後,後藤貞行,小倉惣次郎に彫塑を学び,1898年日本美術院創立に参加。1900年渡欧し,ベルリン美術学校教授ヘルテルに学ぶ。作品に現実感の中にも抒情味をたたえた《ゆあみ》や単純化された形態のうちに枯淡な味わいをもつ《不動》などがある。
→関連項目中原悌二郎

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「新海竹太郎」の解説

新海竹太郎
しんかいたけたろう

1868.2.5~1927.3.12

明治・大正期の彫刻家。山形県出身。仏師の家に生まれる。後藤貞行・小倉惣次郎に学び,1900年(明治33)ドイツに渡り,ベルリンでヘルテルに師事,官学派の古典主義の彫塑を学ぶ。02年帰国し,太平洋画会彫刻部を主宰。07年第1回文展で「ゆあみ」が好評を得る。17年(大正6)帝室技芸員,19年帝国美術院会員となった。晩年は東洋芸術に傾倒,「老子」などを制作した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「新海竹太郎」の解説

新海竹太郎 しんかい-たけたろう

1868-1927 明治-昭和時代前期の彫刻家。
慶応4年2月5日生まれ。後藤貞行(ていこう),小倉惣次郎に師事。のちドイツに留学,ベルリン美術学校のヘルテルにまなぶ。帰国後,太平洋画会彫刻部を主宰。文展審査員をつとめ,帝室技芸員,帝国美術院会員となる。昭和2年3月12日死去。60歳。出羽(でわ)山形出身。代表作に「ゆあみ」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「新海竹太郎」の解説

新海竹太郎
しんかいたけたろう

1868〜1927
明治・大正時代の彫刻家
山形県の生まれ。フランス・ドイツに留学し,帰国後太平洋画会に属し,文展で活躍。西洋の写実主義の技法に東洋の理想主義的表現を加え,独自の作風をつくり上げた。代表作に『ゆあみ』。

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世界大百科事典(旧版)内の新海竹太郎の言及

【明治・大正時代美術】より

…彼らは青年彫塑会(1897結成)に拠り,木彫家をもまじえて技術上の交流をはかった。白馬会には菊地鋳太郎,小倉惣次郎が加わり,太平洋画会にはヨーロッパ留学から帰った新海(しんかい)竹太郎(1868‐1927),北村四海(しかい)(1871‐1927)が加わって後進を指導した。これらようやく盛んになりかけた洋風彫塑に対抗して,1907年,岡倉天心を会長とし,米原雲海(1869‐1925),山崎朝雲(1867‐1954),平櫛(ひらくし)田中らの新鋭木彫家6名による日本彫刻会が結成され,文展第3部には,木彫家,彫塑家が一堂に会することとなる。…

※「新海竹太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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