新篠津村(読み)しんしのつむら

日本歴史地名大系 「新篠津村」の解説

新篠津村
しんしのつむら

面積:七八・二四平方キロ

明治二九年(一八九六)から現在に至る自治体。石狩支庁東端にあり、石狩平野の中央部、石狩川の右岸に位置する。石狩郡に属し、北は篠津川と北一四号線を境に空知支庁樺戸かばと月形つきがた町、東は石狩川を境に同支庁空知郡きた村、南は南一〇号線を境に江別市、西は三五線を境に当別とうべつ町に接する。中央を篠津川と篠津運河がほぼ南西に向かう。中央部を東西に主要道道岩見沢―石狩線、南西端から曲折しながら南北に主要道道江別―奈井江ないえ線、北西端を国道二七五号が斜行する。面積のうち田五〇平方キロ・畑二平方キロと約六七パーセントが農地の純農村で、道内でも有数の米所である。山林は五・七パーセントと僅少で、道内では珍しく平野部の中央に立地する。石狩川が形成した沖積地と肥沃な土壌の恩恵を受けるが、一方でたびたび大洪水があり、広域の泥炭地・低湿地をかかえ、同川の治水、湿地の排水、泥炭地の土地改良という苦難の歴史をもっていた。明治二九年二月に篠津村から屯田兵村以外の地域を分離して新篠津村が設置され、宍粟しそうに新篠津村戸長役場が置かれた。同三〇年には五八一戸・二千二四九人。大正四年(一九一五)四月に二級町村制を実施。同一一年に役場庁舎が市街地へ移転した。昭和五年(一九三〇)一〇月に北村字袋達布ふくろたつぷを編入(新篠津村史)

明治二〇年頃石狩川右岸流域、篠津川流域が、上当別かみとうべつ原野(約四千八三七万坪)として殖民地に選定された。ただし約三千二〇五万坪は泥炭地であった(撰定第一報文)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新篠津村」の意味・わかりやすい解説

新篠津〔村〕
しんしのつ

北海道中西部,石狩川中流域にある村。 1893年篠津原野に植民地区画が設けられ,入植が始った。 96年篠津村より分離。村域は,第2次世界大戦後北海道総合開発の一環として実施された篠津泥炭地開発事業によって開田が進み,石狩平野有数の米作地域に発展綿羊を中心とした畜産も行われる。面積 78.04km2人口 3044(2020)。

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