方東樹(読み)ほうとうじゅ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「方東樹」の意味・わかりやすい解説

方東樹
ほうとうじゅ
(1772―1851)

中国、清(しん)代後期の古文家、学者。字(あざな)は植之(しょくし)、晩年の号を儀衛老人といった。安徽(あんき)省桐城(とうじょう)県の人。彼が生い立った時代は漢学訓詁(くんこ)・考証の学)の全盛期であったが、家学としての宋(そう)学(性理の学=朱子学)を父から伝授され、また姚鼐(ようだい)について桐城派古文を学んだ。50歳のころ広東(カントン)に遊んで阮元(げんげん)の幕下に入り、江藩(こうはん)(1756―1831、『国朝漢学師承記』の著者)と巡り会ったことから、『漢学商兌(しょうだ)』『書林揚觶(ようし)』各4巻、『大意存聞』3巻などを著して、漢学の非政治性を激しく論難し、経世致用のうえから宋学の優位性を主張した。のち、両広総督に提訴してアヘン禁輸を強く迫ったりもした。晩年の著に『昭昧詹言(しょうまいせんげん)』21巻があり、古文家による詩論として興味ある書といえよう。『儀衛軒全集』『考槃(こうはん)全集』『方植之全集』などと題して、その全集は繰り返し出版されている。

[宮内 保 2016年3月18日]

『『清史稿 486巻』』『『桐城派古文淵源考 八巻』』『『清代七百名人伝 七編』』『『清人文集別録 13巻』』『鄭福昭編『儀衛先生年譜』』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「方東樹」の意味・わかりやすい解説

方東樹 (ほうとうじゅ)
Fāng Dōng shù
生没年:1772-1851

中国,清代中期の学者,文学者。字は植之。安徽省桐城県の出身。同郷の桐城派の姚鼐(ようだい)に師事し,古文名手で宋学者。各地の書院で学を講じて暮らした。彼は戦闘的な宋学者であり,漢学派の弱点を《漢学商兌(かんがくしようだ)》3巻を著して攻撃した。梁啓超はその〈漢易〉批判を評価するが,侯外廬は《漢学商兌》の果たした歴史的意義を認めない。また古文の法を応用した詩論に《昭昧詹言(しようまいせんげん)》がある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「方東樹」の意味・わかりやすい解説

方東樹
ほうとうじゅ
Fang Dong-shu

[生]乾隆37(1772)
[没]咸豊1(1851)
中国,清の学者,文学者。安徽省桐城県の人。字,植之。諸生で終った。阮元が両広にあったとき,ともに『広東通志』を編纂。同郷の姚 鼐 (ようだい) に学び,桐城派一員となり,また姚 鼐とともに当時盛んであった考証学派を攻撃して,朱子を重んじた。著書『漢学商兌 (だ) 』『昭昧せん言』『儀衛軒文集』など。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の方東樹の言及

【桐城派】より

…《古文辞類纂》の編者姚鼐は劉大櫆に学び,文壇の指導者として活躍し,また漢学派との折衷を試みた。漢学の批判者方東樹も同派の理論家である。清末には文壇・政界の実力者曾国藩が出て,いっそう折衷学の傾向を強め,経書の文章も文学とみなし,政治・経済の2類を加え《経史百家雑鈔》を編集した。…

※「方東樹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android