旗地(読み)きち(英語表記)Qí dì

精選版 日本国語大辞典 「旗地」の意味・読み・例文・類語

き‐ち【旗地】

〘名〙 中国の清代、北京および瀋陽中心とする地方で、王族および旗人に朝廷から与えられた世襲の地。

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デジタル大辞泉 「旗地」の意味・読み・例文・類語

き‐ち【旗地】

中国の時代、朝廷から旗人に与えられていた世襲の土地。

はた‐ち【旗地】

旗形2」に同じ。

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改訂新版 世界大百科事典 「旗地」の意味・わかりやすい解説

旗地 (きち)
Qí dì

中国,清代の土地制度の一つ。清朝固有の軍事組織としての八旗の構成員である旗人の生活を支えるため,彼らに支給した土地をいい,現在の遼寧省瀋陽市周辺の盛京旗地と北京市周辺の畿輔(きほ)旗地とに大別される。旗地の起源は太祖ヌルハチ興起の時期までさかのぼるが,盛んに設置されるようになったのは,太祖の遼東侵入以後である。初期の盛京旗地では壮丁1名ごとに5~6响(しよう)(75~90畝)の土地を支給し,土地税を徴収するとともに,兵役・徭役の義務を負わせた。旗地の耕作者は主として被征服民の漢人であったが,彼らに対して,太祖は満漢合住,太宗ホンタイジは満漢別住という異なった方針をとった。1644年(順治1),清朝が山海関から中国本部に入って国都を北京に置いた後,盛京旗地では旗人の減少にともなって荒廃化が進んだので,漢人の入植を奨励する政策が行われたが,これはまた旗人の没落という新たな事態を招来した。旗地の崩壊を恐れた清朝は,とくに18世紀の乾隆年間に封禁政策を行って漢人の入植を規制する一方,旗地制度自体の整備を実施した。しかしいずれもさほどの効果はなく,19世紀後期から20世紀初頭の光緒年間に入ると,旗人と一般人民とのあいだの売買が公認され,旗地は急速に崩壊に向かった。

 他方畿輔旗地は,当初国都周辺300里以内にあった明朝王室勲臣の土地や無主の地を回収する,いわゆる圏地政策によって設けられ,旗人の壮丁1名につき6响を支給した。その後,国都に到来する旗人の増加によって不足が生じたため,一般人民の所有地をも圏地の対象とし,その範囲も国都周辺500里に拡大した。しかし,畿輔旗地は,その当初から支給地の実質的不平等など制度上の欠陥もち,さらに支給地の不足,旗人の土地経営からの遊離,当初の耕作者であった漢人俘虜の逃亡とこれに代わる漢人佃戸の増加などの諸契機がからまって,しだいに崩壊しはじめ,旗地を入質の形態をとって売却する典売が激しくなった。このため18世紀の雍正・乾隆年間には,典売された旗地の買い戻し,旗地を国家の直接管理の下に置く入官旗地の設立などによる回復政策が講じられたが,その崩壊を防ぐことはできず,盛京旗地の場合より早く,19世紀中葉の咸豊年間には旗人と一般人民との売買を認めざるを得なくなった。なお,旗地の総面積は,その崩壊期である1887年(光緒13)の統計でも約3180万畝余で,全国の土地の3.76%を占めていた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「旗地」の意味・わかりやすい解説

旗地
きち

中国、清(しん)朝の支配者層である旗人の生活を保障する目的で支給した土地の総称。大別すると、1644年以前、すなわち中国本土支配以前のものと、以後のものがある。前者は、太祖ヌルハチがサルフの戦いで遼東(りょうとう/リヤオトン)半島に進出すると、瀋陽(しんよう/シェンヤン)を中心に遼東半島一帯に設置され、旗人の所有する壮丁の数を単位に支給された。その耕作者は以前から遼東に住んでいた漢人で、一種の荘園(しょうえん)を構成していた。後者は、中国内地に設けられ、とくに旗人のほとんどが居住した北京(ペキン)を中心として設けられた畿輔(きほ)旗地が代表的である。畿輔旗地は、ここにあった明(みん)朝の貴族、大臣などの土地を強制徴収し、さらに一般の民人の耕作地を取り上げて旗人に支給し、支配者層の経済的安定を図ったものである。この土地の徴収強行のため、民人は進んで自分の土地を満州人に献上する「帯地投充」も行われ、この一帯の土地所有関係は中華民国に至るまで複雑をきわめている。駐防旗地は各地に駐屯した旗人に与えられた旗地で、中国全土に散在する。また、満州人の本拠地である遼東の開発を目的とした盛京旗地もある。旗地は本来、旗人の自給自足的経済の確立を目的としたが、旗人の人口増加、商品経済に対応しきれずに崩壊し、やがて旗人の没落を引き起こした。

[細谷良夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「旗地」の意味・わかりやすい解説

旗地
きち
qi-di; ch`i-ti

中国,清朝の旗人が所有する土地の総称。広義では皇室,内務府官荘などの官有地をも含み,狭義では旗人が耕作者,地主である土地をいう。歴史的には太祖ヌルハチ (奴児哈赤)の時代から遼東半島に進出して設置した「盛京旗地」と順治1 (1644) 年中国本土に進出して北京を中心とする順天府一帯に設置した「畿輔旗地」とに大別される。盛京旗地は満州人,漢人,主人,奴隷を問わず,1壮丁あたり 30畝ほどの土地を均等に分与し,各壮丁に均等に官糧と徭役を負担させる北方民族的,部族制的土地制度を展開した。やがて耕作奴隷の増加とともに,均田制的土地所有に家産的な私有地も増加したが,このような土地制度の原型は畿輔旗地にあっても適用され,北京付近の無主の地,官有地,さらに民間地をも圏地して1壮丁5~6しょう (30~42畝) を分与して,北京に移住した旗人の生活基盤とし,かつ租税を免じて戦時の出征にそなえさせた。旗地は売買を禁止されていたが,旗人らは次第に商品経済に巻込まれ,また旗人人口の増加などが要因となって典 (質入れ) するようになり,旗地の所有権は徐々に漢人の手に移り,康煕朝末年になると下級旗人は生活困窮に陥った。こうした旗地の崩壊は旗人経済の破綻,ひいては八旗制の崩壊につながるものであった。

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百科事典マイペディア 「旗地」の意味・わかりやすい解説

旗地【きち】

中国,清朝が旗人(八旗)に支給した土地。太祖ヌルハチに始まる。当初は遼東,瀋陽地区を中心に支給したが,中国本土進出後は北京周辺を中心に支給。前者を盛京旗地,後者を畿輔(きほ)旗地という。他に黒竜江旗地などがある。清朝後半に崩壊。

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旺文社世界史事典 三訂版 「旗地」の解説

旗地
きち

清の八旗に属した武人(旗人)に支給した土地
満州と北京付近にあった。旗人ひとりあたり6晌 (しよう) (後には5晌)の地を給し,兵役・徭役 (ようえき) ・納税を義務づけた。耕作はおもに漢人があたった。旗人の生活安定が支給の目的であったが,18世紀には禁を犯して転売するものが続出し,19世紀半ばには売買が認められ,崩壊してしまった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「旗地」の解説

旗地(きち)

清代の旗人に支給した土地。旗人の生計に資するためヌルハチが施行し,以後拡充整備された。畿輔(きほ)(北京付近)旗地,盛京旗地を主とする。しかし清代後期には漸次崩壊した。

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世界大百科事典(旧版)内の旗地の言及

【官田】より

… 明・清時代の官田としては,ほかに皇室の直轄地として,明代の皇荘,清代の内務府官荘があり,両代とも各軍営や辺境の要地には屯田がおかれ,府学,州学,県学など地方の国立学校にも学田が付設されていた。清代には満州族の扶養のための旗地が設けられた。しかしこれらには宋~明中葉の一般官田のように国家財政収入を支える国有地としての意味はほとんどなく,学田を除くと利用をみとめられた個人の私有地に近い性質をおびていた。…

【八旗】より

…ついで地方の要地に派遣され駐留するようになったが,これらは駐防八旗と呼ばれた。八旗の将兵は生活保証のため旗地という田地を与えられていたが,奢侈な消費生活を送り人口も増えたため困窮化した。そのうえ北京移住後は中国化し昔の素朴な気風を失って弱体化した。…

※「旗地」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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