日本大衆党(読み)にほんたいしゅうとう

改訂新版 世界大百科事典 「日本大衆党」の意味・わかりやすい解説

日本大衆党 (にほんたいしゅうとう)

1928年12月結成された中間派主導の無産政党日本労農党書記長麻生久)を中心右派日本農民党(幹事長平野力三),労農派主導の無産大衆党(書記長鈴木茂三郎),九州民憲党(委員長浅原健三),中部民衆党(委員長中沢弁次郎)のほか信州大衆党,島根自由民衆党の7党合同により結成された。書記長平野,書記次長河野密。階級的単一無産政党の結成を目標に掲げたが,29年1月進め社の福田狂二や労農派の鈴木らが,結党のとき麻生,平野が宇垣一成田中義一らから資金援助をうけたとして追及した(清党事件)。このため平野は脱党し,紛糾の因をなしたとして進め社系と労農派は除名された。党は中間派を中心に陣容を立て直し,委員長麻生,書記長河野を選んで,大衆運動を展開した。30年の総選挙で浅原,松谷与二郎を当選させたのみであったため,合同運動を推進し,全国民衆党など地方無産政党と合同し,7月20日全国大衆党発展した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日本大衆党」の意味・わかりやすい解説

日本大衆党
にほんたいしゅうとう

昭和初期の中間派無産政党。1928年(昭和3)12月20日、日本労農党を中心に、日本農民党、無産大衆党、九州民憲党(八幡(やはた))、中部民衆党(岐阜)、信州大衆党、島根自由民衆党の中間派七党が合同して結成された。委員長は高野(たかの)岩三郎、書記長は平野力三(りきぞう)。しかし結党1か月後に、平野、麻生久(あそうひさし)のスキャンダル(田中義一(ぎいち)首相からの金銭受領、宇垣一成(うがきかずしげ)ら軍幹部との接触など)を機として清党運動が起こった。その結果、29年5月、平野のほか、山川均(ひとし)の共同戦線党構想の実現を意図していた労農派の鈴木茂三郎(もさぶろう)らが除名され、麻生久委員長、河野密(こうのみつ)書記長のもとに再出発した。失業反対運動、借家人運動などを展開し、30年7月20日全国大衆党へ発展、解消した。

[塩田咲子]

『増島宏他著『無産政党の研究』(1969・法政大学出版局)』

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百科事典マイペディア 「日本大衆党」の意味・わかりやすい解説

日本大衆党【にほんたいしゅうとう】

1928年日本労農党を中心に日本農民党など7党が合同して結成された無産政党。書記長は平野力三。内紛が絶えず左派の鈴木茂三郎,右派の平野らを翌年除名して新たに委員長に麻生久。労働組合法,失業手当法の制定運動などを行った。1930年全国大衆党へ発展。
→関連項目堺利彦全国民衆党無産大衆党

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旺文社日本史事典 三訂版 「日本大衆党」の解説

日本大衆党
にほんたいしゅうとう

昭和初期の中間派無産政党(1928〜30)
1928年12月,日本労農党を中心に右派の日本農民党,労農派の無産大衆党など7党合同により結成された。紛糾がたえず,結局は労農派がはじき出され,'29年6月には委員長麻生久,書記長河野密で体制を固め,合同前の日本労農党とかわらなくなった。'30年7月全国大衆党へ発展した。

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世界大百科事典(旧版)内の日本大衆党の言及

【無産政党】より

…これに対し共産党から〈階級的裏切り〉という攻撃が加えられ,党内から解消運動が起こるなど混乱が深まり,旧労農党の勢力は衰えた。 中間派では日本労農党が1928年12月,日本農民党,無産大衆党,九州民憲党などと合同し,日本大衆党(書記長平野力三)を結成した。結党直後平野らの腐敗事件が暴露され,清党運動が起こり,翌年5月平野および反対派の鈴木茂三郎らが除名され,同党は旧日労党系の党にすぎないものとなった(委員長麻生)。…

※「日本大衆党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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