日樹(読み)にちじゅ

改訂新版 世界大百科事典 「日樹」の意味・わかりやすい解説

日樹 (にちじゅ)
生没年:1574-1631(天正2-寛永8)

江戸時代初期の日蓮宗の僧。備中国浅口郡に生まれた。長遠院と号する。池上の学室に入り,1619年(元和5)鎌倉比企谷(ひきがやつ)妙本寺池上本門寺両山の住持となり,また浅草長遠寺を開創した。日奥に学問的に私淑し,中山法華経寺日賢,小西檀林日領,本土寺日弘らとともに池上を中心とした関東学派の不受不施派を唱和し,本満寺日重,身延日乾らを中心とする身延・関西学派の受不施派と対抗した。ことに30年(寛永7)幕命により,江戸城内で行われた身池対論には不受不施派を代表して出席し,受不施派と激しく法論を行ったが,同派は禁教に処され,彼も信州伊奈に流された。著作に《留意要》がある。
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朝日日本歴史人物事典 「日樹」の解説

日樹

没年:寛永8.5.19(1631.6.18)
生年天正2(1574)
江戸前期の日蓮宗の僧。不受不施派の中心的人物。池上・比企両山16世。備中国(岡山県)黒崎に生まれる。飯高・中村檀林で学業を積み,飯高檀林の7世化主に栄進。教学的には不受不施派の日奥を中心とする関東学派に属し,本満寺日重,身延日乾ら受不施派の関西学派と対立した。元和5(1619)年,池上に入山後本門寺の復興に努めたが,寛永7(1630)年の江戸城内での受,不受の係争では,不受不施派を代表して体制側の関西学派に敗れ,師日奥は「死後流罪」,日樹は信濃飯田に流された。日樹配流後の池上本門寺は体制下に編入されていった。<著作>『不受不施言上』<参考文献>宮崎英修『不受不施派の源流展開

(佐々木馨)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「日樹」の解説

日樹 にちじゅ

1574-1631 織豊-江戸時代前期の僧。
天正(てんしょう)2年生まれ。日蓮宗。両山(池上本門寺・鎌倉妙本寺)14世の日詔(にっしょう)に師事し,元和(げんな)5年両山16世となる。不受不施をとなえて身延山久遠寺の日乾(にちけん)らと対立,寛永7年江戸城での対論(身池対論)に敗れ,信濃(しなの)(長野県)に流された。寛永8年5月19日死去。58歳。備中(びっちゅう)(岡山県)出身。号は長遠院。著作に「不受不施言上」など。

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世界大百科事典(旧版)内の日樹の言及

【本門寺】より

…家康の保護や加藤清正,徳川秀忠の乳母岡部局,前田利家の側室寿福院らの援助もあって堂塔が建立された。近世初頭京都で起こった日蓮教団における受不施・不受不施の論争や対立は東国でも起こり,その中心の一人に本門寺16世日樹がいた。1630年(寛永7)日樹は受不施派が占有した身延久遠寺の日暹(につせん)らと論争(身池対論)して敗れ,他の不受派の人々とともに流謫された。…

※「日樹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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