日置郷(読み)ひおきごう

日本歴史地名大系 「日置郷」の解説

日置郷
ひおきごう

古代の気多けた郡日置郷(和名抄)を継承した中世の国衙領。大字日置が遺称地。承久の乱後、武蔵七党の一、児玉党の一族で越生おごせ(現埼玉県越生町)を本貫地とする越生有高が地頭として入部した。有高はさっそくに日置郷にも混在していた京都仁和寺新井にい庄の庄田七反を押領したとして仁和寺から幕府に訴えられ、貞応元年(一二二二)七月七日の関東下知状(仁和寺文書)によって、有高らの新儀濫妨が停止されている。安貞二年(一二二八)までに、但馬守護法橋昌明らが、進美しんめい寺領「日置河内」の畠・山林等に濫妨したことほか一条を進美寺から本山の近江延暦寺に訴え、延暦寺政所下文ならびに根本中堂後戸下文をもって濫妨停止を命じられた。これに対して昌明は、安貞二年六月四日進美寺へ寄進した忠清の子息忠行から、昌明は地主職を譲られていること、山城石清水いわしみず八幡宮から押妨され、子細を注進したのに根本中堂の沙汰は遅々としており、昌明は秘計を巡らせて押妨を鎮めたこと、根本中堂領であることはもちろんながら、地主職は破られるべきではないこと、日置河内の畠・山林等について進美寺衆徒らがしばしば訴訟を起こし、使者大膳民部大夫範重が下向したとき、昌明は在庁官人らとともに道理に任せて裁定し、その後あえて訴訟はなかったこと等を弁明している(「法橋昌明請文案」進美寺文書)。しかし日置畠等に対する守護所の押領が延暦寺から幕府に訴えられ、寛喜元年(一二二九)一一月六日に停止されている(「六波羅下知状案」同文書)

日置郷
ひおきごう

和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。諸国同名郷を「ひおき」とよぶ例が多いが、また「ひき」ともよぶ。「丹後国風土記」逸文の浦嶼子に「与謝の郡、日置の里、此の里に筒川の村あり」とある。「伊呂波字類抄」には成相なりあい(現宮津市)は「与謝郡日置ノ郷狭屋山せやさん」にあるとしている。

中世末の丹後国御檀家帳は「ひをき」とよんでいる。

丹後国田数帳に、

<資料は省略されています>

とある。大永六年(一五二六)五月三日付の丹後国日置郷内国富分米銭納所注文(成相寺文書)および同年六月一二日付の成吉孫次郎の成相寺永明院宛書状(同文書)は、いずれも「国富」を日置郷内としている。

国富くにとみは丹後国田数帳の丹波郡(現中郡)にみえる「国富保 十一町 成吉三良左衛門」にあたると考えられ、成吉氏の勢力の強い三重みえ(現中郡)に含まれていた土地である。

日置郷
ひおきごう

近世の郷で、鹿児島藩の外城の一。日置島津家の私領。北と東は伊集院いじゆういん郷、南は吉利よしとし郷に接し、西は吹上ふきあげ浜に面する。中世は吉利郷も含んだ地域を日置北ひおきほく郷と称した。日置村・山田やまだ村と帆之湊ほのみなと浦・折口おりぐち浦がある。山田村は朝鮮出兵・庄内の乱・関ヶ原合戦に勇名を馳せる山田有栄(昌巌)家古来の所領であった。有栄の曾祖父有親は島津貴久の本家相続をめぐる内訌で忠良・貴久に敵対したが、天文二年(一五三三)に敗れ降伏した。忠良は有親を許して家臣としたが、謀反の意図があるとの讒言を信じ、有親を伊作いざく(現吹上町)へ招き、その途中で謀殺した。のちに忠良は有親の無実を知り、遺児有徳を山田と日置の領主とした(島津国史)。天正六年(一五七八)有栄の父有信は日向高城たかじよう(現宮崎県木城町)地頭となり日置を離れた(「日州御発足日々記」旧記雑録)。その後島津氏の直轄支配を経て文禄四年(一五九五)島津常久(歳久の孫)が日置郷を宛行われ、日置島津家の祖となった(歳久公正統系図)

日置郷
ひおきごう

古代の気多けた郡日置郷(和名抄)を継承する中世郷。郷域は現青谷あおや町の東半、日置川の流域一帯に比定され、上郷・中郷・下郷に分れていた。弘安四年(一二八一)一二月二八日の将軍家政所下文案(竹内文平氏旧蔵御領目録裏文書)に「因幡国日置郷」とみえ、同年一一月三日に父是通より譲られた郷内しも村などの地頭職が山内首藤通茂に安堵されている。翌五年一二月二七日には下村のうち「潮津村」などが藤原(山内首藤)通増に譲られている(年月日未詳「関東下知状」竹内文平氏旧蔵文書)潮津うしおづ村は現在の青谷町青谷の東部にあたる。観応元年(一三五〇)一二月二五日、足利直冬は山内彦次郎がもっていた当郷などの地頭職(土貢五〇〇貫)を友枝宗高の一族に勲功の賞として与え、彦次郎が味方についた場合には替地を与えるとしている(「足利直冬宛行状案」豊後余瀬文書)

日置郷
ひきごう

「和名抄」所載の郷。名博本では記載がない。高山寺本では於支豆と訓を付すが、同郡内の置津おきつ郷の訓が誤って付されたものであろう。一四国一五郷の例より訓は比於木・比於岐または比岐である。郷名は大化前代の日置部の設定に関係するとも考えられる。「日本地理志料」は「安房国誌」のいう二子ふたご(現鴨川市)比岐ひきの字名を引用し、曾呂そろ川中流域の現鴨川市二子周辺から同市太海ふとみ江見えみから和田わだ花園はなそのに至る一帯に比定しており、「大日本地名辞書」もほぼ同様の見解である。

日置郷
ひおきごう

「和名抄」高山寺本に「日置」と記し、訓はない。刊本は「比於木」と読む。同名の郷が全国に一三あるなかで、伊勢・越後・長門は比於木、但馬は比於岐、能登は比岐と訓じているところからみて「ひおき」あるいは「ひき」と称していたのであろう。

延喜八年(九〇八)の周防国玖珂郡玖珂郷戸籍(石山寺所蔵文書)にみえる「日置部」や、仁平二年(一一五二)賀茂別雷かもわけいかずち神社(現京都市北区)矢島やしま(現熊毛郡上関町八島)の住人に宛てた周防国在庁下文(鳥居大路文書)のなかにも多々良氏らと並んで日置氏が署名している。その出自はこの日置郷と関係があるのではなかろうか。

日置郷
ひおきごう

「和名抄」高山寺本に「日置」と記し、訓を欠くが、刊本では「比於木」と訓じる。しかし「大日本地名辞書」は「比於木とあるは疑ふべし。今日置村菱海村にあたり、ヘキと唱ふるは古言の遺れるならん」と記している。「山口県文化史」はこの説をうけて「ヘギ」と読むのが正しいと述べている。同名の郷は大和・伊勢・尾張・安房・能登・越後・丹波・丹後・但馬・因幡・出雲・肥後・薩摩の諸国とともに周防国佐波郡にもみられる。同郡日置郷の項で触れたように、延喜八年(九〇八)周防国玖珂郡玖珂郷戸籍(石山寺所蔵文書)に「日置部小魚丸」など同姓一九人がみられ、「吾妻鏡」文治三年(一一八七)の条にも、周防在庁官人に日置宿禰高光などがみえるところから、同族が広く長門にも及んでいたのではないかと考えられる。

日置郷
ひきごう

「和名抄」所載の郷。刊本に「比岐」と訓ずる。郷域については三説ある。まず日置すなわち火域とみて狼煙と関連づけ、現珠洲市東端部の狼煙のろしを中心とする地域を想定する説(日本地理志料)、次に現内浦町小木おぎ松波まつなみにわたっての地域がのちに日置庄とよばれたこと、小木の九十九つくも湾が日置の海とも称されたこと、さらに小木の日和ひより山がもと日置山とよばれたという伝承があることなどを根拠に、現内浦町全域に比定する説(「能登志徴」など)、現内浦町域の南部に限定し、北部を大豆おおまめ郷とする説である。

日置郷
ひきごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「閉岐」と訓を付す。「延喜式」神名帳に「疋野ヒキノ神社」がみえる。同社は現玉名市立願寺りゆうがんじに鎮座し、立願寺(廃寺)は同社の神宮寺であった。「疋野」は「日置野」であろう。「国誌」には立願寺村の小村に疋石野ひきいしの村が記される。当郷はこの立願寺付近にあてられる。寛政元年(一七九四)に現玉名郡菊水きくすい江田の鶯原三宝えたのうぐいすばるさんほう寺の籬畔で発見された銅板墓誌銘に「玉名郡人権擬少領外少初位下日置(部カ)公」とあり、八幡宇佐宮御神領大鏡(大分県到津文書)には伊倉いくら別符(現玉名市)を先祖相伝の私領と称する郡司日置則利がみえる。

日置郷
ひおきごう

「和名抄」東急本は「比於木」の訓を付す。嘉元三年(一三〇五)四月と推定される摂渡庄目録(九条家文書)に、東北院領「隆長相伝云々日置庄 免田廿町 年貢八丈絹十疋」とみえる日置庄は、当郷内に設立された荘園。

日置郷
ひおきごう

「和名抄」所載の郷。同書東急本に「比於岐」の訓がある。日置部を設置したことによる郷名であろう。円山まるやま川右岸の現日高ひだか町の日置が遺称地。同所から同じく右岸の日高町鶴岡つるおか(近世の伊福村・多田屋村)上郷かみのごう、豊岡市中郷なかのごうにかけての地を郷域とする「但馬考」の説が通説。

日置郷
へきごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、ヘキであろう。「出雲国風土記」によれば、神門郡八郷の一つで、郡家の東四里に郷長の家があり、地名は欽明天皇の頃に日置伴部らが派遣され、宿停し、政を行った(開発したということか)ことに由来するという。日置伴部がみえるが、天平六年(七三四)の出雲国計会帳(正倉院文書)に出雲郡大領として日置臣佐提麻呂がみえる。同一一年の出雲国大税賑給歴名帳(同文書)に日置郷内として荏原里・桑市里・細田里がみえる。

日置郷
へきごう

「和名抄」高山寺本・東急本・元和古活字本のいずれも訓を欠く。他国の同名の郷で訓をもつものは「比於木」、一例に「比岐」とあり(いずれも元和古活字本)、「ひおき」もしくは「ひき」とよばれている。また、応神天皇の皇子、大山守皇子を祖とする氏に日置氏があるが、「古事記」には「幣岐」と記されており、「へき」ともいわれていたことが知られる。

日置郷
ひおきごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠くが、他国の郷名に比於木・比岐・比於岐などの訓がある。「大和志」は「已廃存倶尸羅村」として現御所ごせ市大字櫛羅くじらに比定、同地に小字日置へきがある。

日置郷
ひおきごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本・東急本・名博本ともに訓を欠く。「丹波志」によると、藤原時平が日置庄を領していた頃、郡家ぐんげ以東宗部そがべ郷までを日置西郷とし、宗部郷以東鬼坂までを日置中郷、鬼坂以東を日置東郷と称したとする伝承があるという。郷域は「大日本地名辞書」は郡の中央部、篠山城跡を挟んで現城北じようほく地区から城南地区にかけての篠山盆地中央部とする。

日置郷
ひおきごう

「和名抄」東急本は「比於木」と訓を付す。「日本地理志料」はその地未詳としながらも、小戸こど朝日あさひ金津かなづ(現新津市)矢代田やしろだ小須戸こすど(現中蒲原郡小須戸町)にあてる。

日置郷
ひおきごう

「和名抄」所載の郷。同名の郷は薩摩国のほか諸国に計一五あり、伊勢国・越後国・但馬国・周防国・長門国の日置郷に「比於木」「比於岐」、能登国の日置郷には「比岐」の訓がある(同書東急本)。「大日本地名辞書」は樋脇ひわきは日置の訛かとし、当郷を入来いりき・樋脇などの山村の可能性も指摘するが、結論としては不詳とする。

日置郷
ひおきごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。天慶三年(九四〇)九月二日の因幡国高草郡公文預東大寺領高庭庄坪付注進状(東南院文書)に「少領国司代日置臣寿」、翌四年二月二日の因幡国司牒(同文書)に「権少目日置」が署名をしている。両者は当郷を拠点とする有力豪族と推定される。少領国司代という役職名は令制にはないが、国司代および権少目の役職から両者はこの時期国衙支配機構にかかわっていたことがわかり、日置臣寿は郡司に任じられていたことが判明する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の日置郷の言及

【日置荘】より

…〈へきのしょう〉とも呼ぶ。薩摩国薩摩郡日置郷(現,鹿児島県日置郡)を母体とする荘園。平安時代末期,同郷は南北2郷に分かれ,うち北郷内70町と南郷内36町は荘国両属の寄郡(よせごおり)として摂関家領島津荘に加えられたが,1187年(文治3)本領主の系譜をひき下司職をもつ平重澄はこれを島津荘の一円領として寄進しなおしたので,こののちはしばしば島津荘内日置荘(日置北庄,日置南庄)とも呼ばれるようになった。…

【日置荘】より

…〈へきのしょう〉とも呼ぶ。薩摩国薩摩郡日置郷(現,鹿児島県日置郡)を母体とする荘園。平安時代末期,同郷は南北2郷に分かれ,うち北郷内70町と南郷内36町は荘国両属の寄郡(よせごおり)として摂関家領島津荘に加えられたが,1187年(文治3)本領主の系譜をひき下司職をもつ平重澄はこれを島津荘の一円領として寄進しなおしたので,こののちはしばしば島津荘内日置荘(日置北庄,日置南庄)とも呼ばれるようになった。…

※「日置郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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